小池真理子 第三水曜の情事 目 次  第三水曜日の情事  マイアミの優雅な午後  ヌーヌーのクリスマス  覚えのない殺人  訪ねてきた女  無邪気なものまね  ボン・ボワイヤージュ  目撃者の三つの目  十三人目の被害者  彼女を愛した俺と犬  幸せのサウンド・オブ・サイレンス  女の約束  不運な忘れ物  やさしく呪《のろ》って……  計画通りの埋葬  几帳面《きちようめん》な性格  待ちわびた招待  気にくわない奴《やつ》  知らなかった偶然  死体のそばの犬   あとがき  第三水曜日の情事  久しぶりにフィラデルフィアからニューヨークに出て来たエレンは、コニー・スチーブンスそっくりのプラチナブロンドの巻毛をゆすって、ジャネット相手に自分のことばかり喋《しやべ》っていた。ジャネットは、この少々知性に欠ける女友達の訪問をあまり歓迎していなかったので、半分うわの空だった。 「ジャネットったら、聞いてるの」 「え? ああ、ごめんなさい。あなたのご主人がパーティー会場でマティニーの入ったグラスを割ったっていう話だったわね。それで?」 「もうその話はすんだのよ。聞いてほしいのは、そのパーティーで知り合ったハンサムな若いカメラマンのことなの。ねえ、ジャネット。私、彼に夢中なの。彼のこと考えただけでからだがゾクゾクしちゃう。彼も同じだって言うのよ。私のこと考えただけで胸がつまるんですって」 「おやおや。お早いことね。もうそんな関係になったの?」 「一回だけ。夫の目を盗むの大変だったわ。だから彼の車の中で……ね、わかるでしょ。開業医の歯医者となんか結婚するもんじゃないわね。いつも家にいるから浮気《うわき》もできないんだもの。でもすてきだったのよ。音楽はマイケル・ジャクソンがかかってて、車の外は雨で……。ああ、月に一度でいいわ。彼とゆっくり一晩すごせたら言うことないわ」  月に一度……。この時、もしエレンがそう言わなかったら、ジャネットも完全犯罪の計画を思いつかなかったかもしれない。彼女は、口を半開きにしながら若い情人を思ってうっとりしているエレンをしげしげと眺めた。  小さな頭と対照的に大きな胸と尻《しり》。くびれたウエスト、男性週刊誌のセクシーピンナップガールさながらに見事な肉体をもつエレンは、男好きであることは間違いなかったが、夫に知られるような浮気は決してしないタイプでもあった。エレンがいま指にはめている三カラットのダイヤの指輪や首に下げている紫水晶のネックレス、細い腕に巻いているピアジェの腕時計などを買ってくれる金持の夫を彼女は、死んでも手離さないだろう。 「なんなら」と、ジャネットは言った。 「私のこの部屋を月に一回、貸してあげましょうか。ご主人には今後、月に一度ニューヨークのジャネットのところに遊びに行って泊まってくることにした、って言えばいいじゃない」  ジャネットが思った通り、エレンは目を輝かせてこの話に飛びついてきた。 「すごい。すてきだわ。夫はあなたのことはよく知ってるし、信用してるから疑われっこないわ」 「そうよ。万一、電話がかかってきてもあなたが出ればいいんだし。私はその夜はボーイフレンドのところに泊まるから大丈夫」 「うわあ、夢みたいだわ」  エレンは目を細めて大袈裟《おおげさ》に身ぶるいした。 「その代わりいいこと、エレン。万一、何かがあってもあなたは私とこのアパートにいた、って言いはるのよ」 「もちろんじゃないの。私だって夫に知られたら一生の終わりだわ。生きていけないわ」 「OK。話は決まったわね。第一回目はいつにする?」 「そうね。毎月第三水曜日っていうのはどう? あらかじめ決めておいたほうが、私も彼も都合《つごう》がつけやすくていいわ」  ジャネットは微笑してうなずいた。  ジャネットが経理の仕事をしているハモンド広告社は、三十五歳のギルバート・ハモンドが経営する二流のCF制作会社である。二流とはいっても、ここ数年、テレビCFの受注が増え、会社が潤っていることは明らかだった。  ただ、いくら会社が潤っても、一介のOLにすぎないジャネットのふところが潤うわけではない。マンハッタンの中流のアパートで一人で何の変わりばえもしない生活を続けるのは、よく考えると淋《さび》しい話だった。  しかし、ギルバート・ハモンドの従兄弟《いとこ》にあたるポール・ハモンドが彼女に求愛し始めてからは、情況は一変した。ポールはハンサムでしかも、ハモンド社の副社長兼制作部長の地位を得ていた。ポールと結婚すれば、エレンに負けない優雅な暮らしは保証されている。  ジャネットはポールと密《ひそ》かに結婚の約束をし、ある晩、社長であるギルバートに報告に出かけた。ギルバートは皮肉めいた口調で言った。 「君とポールが結婚するのは自由だ。しかし、もしそうなったら、私はポールにこの社を辞めてもらう。本気だよ、ジャネット。私はとても勝ち気な男なのだ」  ジャネットはかねてからギルバートも自分を狙《ねら》っていたことに気づいていたが、まさかここまでいやがらせをされるとは思ってもいなかった。いくら社長の座にある男とはいえ、太鼓腹で横暴な権威主義者を好きになることはできない。  とはいえ、ポールと結婚して本当に彼が社をクビになったとしたら、すべての夢が水の泡だった。ギルバートさえいなくなれば……と、ジャネットとポールが考え始めたのもごく自然な成り行きであった。  三度目の第三水曜日がやって来た。ジャネットはいつも通り、アパートのメイルボックスにエレンのための部屋のキイを入れると、何喰《なにく》わぬ顔で出社し、仕事に精を出した。  午後六時、秘書たちが帰ったのを確認してから彼女は制作部長室のポールを訪ねた。部屋にはハモンド社が今度、広告を手がける新製品のキッチンナイフが入った箱が置いてあった。その箱につまずかぬよう注意して、ジャネットはポールのそばへ歩み寄った。 「今夜、決行するわ」  ポールは顔色が悪かったが、力強く彼女を両腕に抱きしめてきた。 「準備は整えておいたよ。ギルバートは今夜は一人で家にいる。ピストルは持ったね」 「ええ、確かに」 「君が心配だ、ジャネット。僕たちは本当にうまくやれるのだろうか」 「大丈夫よ。私はエレンと一緒にいることになってるんだし、あなたは接待のパーティーに出ているんだもの。アリバイは完全よ。ああ、ポール。私たち一緒になれるのよ。それにあなたには社長の椅子《いす》が待ってるんだわ」  ジャネットはポールの唇に自分の唇を近づけた。その時、ポールのデスクの電話が鳴った。ポールは手を伸ばしかけたが、ジャネットはやさしくその手を払いのけた。彼は彼女を一層、強く抱きしめた。電話のベルだけが部屋にしばらくの間ひびき渡り、そしてやんだ。  翌朝、すべてのことをやり終えてホテルからまっすぐ出社したジャネットは、社内がすでに騒然としているのを見て驚いたふりをしながら同僚に聞いた。 「いったい、どうしたっていうの」 「ハモンド社長がゆうべ撃たれたんですって。即死よ。おお、こわい。何てことかしら」 「まあ。犯人は誰《だれ》なの」 「まだつかまってないわ。でも警察は社内の人間の昨夜のアリバイも一応、調べるんだそうよ。いやね。冗談じゃないわ」  アリバイならいくらでも調べてほしいくらいだわ……とジャネットは思った。エレンがいる限り、彼女は安全だったのだ。  ジャネットのデスクの外線電話が鳴った。エレンからだった。ジャネットは他の人に聞かれないよう小声で言った。 「ゆうべはどうだった? 楽しめた?」 「それがね、ジャネット。結局、私たちゆうべは会えなかったのよ」  ジャネットの顔から血の気がひいた。 「どういうことなの?」 「彼はわりと売れっ子のカメラマンなのよね。それで今朝早くからあるはずの仕事の連絡をするために、ゆうべ仕事先の人に電話したんだけど相手が出なくって。結局、彼は自宅で連絡待ち。淋しかったわ、会えなくて」 「待ってよ、エレン。じゃあ、あなたゆうべはどこにいたの」 「どこって、家にいたに決まってるじゃないの。夫と一緒におそろしくまずいクリームチキンを食べてたわ」  ジャネットの額に脂汗《あぶらあせ》が浮かんだ。彼女はやっとの思いでもう一つの質問をした。 「どうして私に連絡してくれなかったのよ」 「あら、だって六時の段階では私と彼は会う予定だったのよ。でも六時少しすぎに彼がその仕事先の人に電話して、その人がつかまらなかったんだわ。何かのポスターの撮影だって言ってたわ。そうそう、新発売のキッチンナイフの宣伝ポスターだって。そのナイフ、とっても便利なんですってよ。一本のナイフでチーズも肉もパンも切れちゃうんだって。それもね……」  ジャネットは聞いていなかった。あの時、ポールの部屋で鳴っていた電話のベルの音が耳の中に響きわたり始めた。 「エレン」と彼女は怒りを秘めた静かな声で言った。 「あなたの彼がどんな仕事をしているのか、私にどうして言ってくれなかったの」 「どうしてって、だって私だって彼がどんな仕事をしてるのか、ゆうべ彼の電話で初めて知ったのよ。そんなことあまり興味ないもの。聞いたってわからないし。仕事とセックスするわけじゃないから関係ないわ」 「あなたは幸福な人よ、エレン」  そう言うとジャネットは静かに受話器をおろした。  彼女がいる経理部のドアを開けて刑事が入って来たのと、それはほとんど同時だった。  マイアミの優雅な午後 「外はこんなにいい天気っていうのに」と、スージーは素肌にシーツを巻きつけて窓辺に立ちながら言った。「ホテルから一歩も出られないなんて、私たちまるで囚人ね」 「考え方次第さ」  ウィリーは、ポールモールを一本くわえると、けだるい仕草《しぐさ》で火をつけた。 「マイアミに来て、フォンテーヌブロー・ヒルトンで優稚なひとときをすごせない連中に比べたら、僕たちだってなかなかのもんだぜ」 「そりゃあそうだけど。でもいくらフォンテーヌブローの一室を借りてたって、やっぱりあなたとこの青空の下を腕組んで歩きたいと思ってしまうわ」と、スージーがため息をついた。ウィリーは、灰皿に軽い音をたてて灰を落としながら言った。 「仕方ないよ。考えてもごらん。今、マイアミを君と僕が腕を組んで歩いたら、今晩のうちにハリウッドは蜂《はち》の巣をつついた騒ぎになるぜ。そして明日の朝には、ヘンリー・マーシャル大監督は、君を女優としてだけでなく、女房としても惜しげもなく放り出すだろうよ。今度の映画で、彼から大役をもらえることになっているこの僕もつぶされるさ。新聞は久々のスキャンダルに君の顔写真と同じくらい、大きなアルファベットを並べてお祭り騒ぎをやらかすだろうし、それに……」 「やめて、ウィリー」と、スージーは神経質そうに眉《まゆ》を寄せて彼をにらんだ。 「その話はもうたくさん。何度も聞かされたし、私だってそうなることくらいよく知ってるわ」  彼女はソファーに腰をおろすと、もう一度深くため息をついた。 「運命のいたずらね。私がこれほど顔を知られた女優でなかったら、そしてあなたがヘンリーの率いる映画集団の一員でなかったら、マイアミだってどこだって、肩組んで歩けただろうし、木陰でキスもできたわ」  ウィリーはベッドの中から目を細めて彼女を見た。 「もう一つ、つけ加えることがあるよ」  彼は悲しげに続けた。 「君が人妻じゃなかったら……ってことさ。君が結婚している事実が、僕たちをこういう関係におしこめてしまってるんだ」 「おお、ウィリー」と、スージーは立ち上がり、ベッドに駆け寄って彼の上半身を抱きしめた。 「ごめんなさい。私たちをこんな閉ざされた関係にしてしまったのは私なのよね。でもあなたを愛しているのよ。夫のヘンリーを愛した時とは比べものにならないわ。あなたとは一生、離れたくないのよ。本当よ」  ウィリーはしばらく彼女の頭をやさしくなでていたが、やがて意を決したように言った。 「さ、そろそろ三時だ。着替えて出ないと君の仕事に遅れてしまうよ」  彼女は諦《あきら》めたようにうなずいた。その時、何の前ぶれもなくドアチャイムが鳴った。二人は顔を見合わせた。 「誰かしら」  ウィリーは表情を硬くしてドアのほうを見た。チャイムが続けて二度鳴り、次にこぶしでドアをたたく音がした。 「何だろう。僕が見てくる。君はバスルームに隠れていたほうがいい」  彼ははね起きて、バスローブを手早く身にまとうとドアのほうへ歩き出した。スージーがあわててバスルームヘ駆け込んだのと、開けたドアから胸を押えた若い女が倒れこんできたのとは、ほとんど同時だった。  しばらくの沈黙のあと、ウィリーはバスルームをノックしてスージーを呼んだ。彼女はバスタブよりも白い顔をしていた。 「いいか。これから僕の言うことをよく聞くんだ。決して叫び声をあげたり、動転して泣き出したりするんじゃないよ」 「何なのよ。何があったの。誰だったの」 「しっ」と、彼は彼女の唇に人さし指を立てた。 「信じられないことがおこった。何がおこったのか、何故《なぜ》なのか、まったくわけがわからない。君がヒステリーの発作をおこさないでいてくれることだけが僕の望みだ」  スージーは目を大きく見開いて、生唾《なまつば》を飲みこんだ。ウィリーはふるえながら言った。 「いまドアを開けてみたら女が立っていた。白いスーツを着た若い女だ。そしてむろん、僕も君も知らない女だ。その女がいきなり部屋の中へよろよろと入って来た」 「何なの。どういうこと。その人、まだいるの」 「いる。白いスーツの胸を真っ赤な血に染めてね」  スージーは両手を口に当てて息を吸いこみ続けた。呼吸困難をおこしてでもいるかのようだった。ウィリーは彼女の反応を見ながら、注意深くつけ加えた。 「死んでるんだ。ナイフか何かで刺されたらしい。きっと殺されたんだ。ホテルの中のどこかで。それで虫の息でここに飛びこんで来たんだ」  長くか細い叫び声がスージーの喉《のど》の奥からもれた。 「頼むよ、スージー。落ち着いてくれ。叫びたいのは僕も同じだ。でも今は二人で協力し合わなければいけない。気を落ち着けてドアの前に倒れてる死体を見に行こう。何か手掛りがあるかもしれない」 「手掛りですって!? そんなものさがしてどうするっていうの」  スージーは泣き出した。 「泣かないでくれ。ともかくあの死体をどうにかしなくてはいけない。そのためのヒントが死体の持ち物か何かにあるかもしれないじゃないか。え、スージー。それともばか正直にフロントに通報して、警察を呼んでもらうかい。マイアミで、有名女優スージー・マーシャルの情事用の部屋に胸部を刺された女の死体!!……明日の新聞はこの記事一色になるぜ」 「そんな話、聞きたくないわ。何てことなの。やめてよ」 「しかしそれが現実なんだ。さあ、おいで、スージー。このばかげた椿事《ちんじ》をどう切り抜けるか、僕たちは考えなくちゃいけない」  スージーは彼の言うことを理解したようだった。手の甲で涙を拭《ぬぐ》うと深呼吸し、彼女はこわごわウィリーのあとに続いてバスルームを出た。ウィリーがドアの前の白い大きな塊の前にかがみこんだ。 「完全に死んでる。何てこった。見ろよ。じゅうたんが血で汚れちまってる」  そう言いながら彼は、女の着ている白いスーツのポケットをまさぐった。中にはレースのハンカチーフ以外、何も入っていなかった。 「まいったな。どこの誰かもわからない」 「ウィリー、私たちどうしたらいいの」  スージーが再び涙声で言った。 「運び出すにしてもここはホテルだからな。人目につくに決まっている」 「廊下に置いておけばいいわ。誰かが見つけて警察を呼んでくれるわよ」 「そうしたら僕たちも質問を受けなくてはならなくなる。死体のあった廊下のフロアーの部屋は、間違いなく調べられる。当然、君も質問を受けることになるよ」 「とんでもないわ。ねえ、ウィリー。今すぐ二人して逃げましょう。それしかないわ」 「死体をこのままにしてかい。そしてあとになってこの部屋を予約した僕が疑われるんだ。君は僕さえ黙ってれば安全だがね」 「ウィリー、私、そんなつもりじゃ……」 「いいんだ。君の本心は所詮《しよせん》、そのあたりにあるのかもしれないからな」 「何てこと言うの。私は何も……」 「いいさ。君はこのままいけば、いつまでもヘンリー・マーシャル大監督の女房で有名女優さ。そして僕は無名の俳優。しかも殺人の嫌疑までかけられたら、たまったもんじゃない」 「私にどうしろっていうの」と、スージーは声を荒げた。 「女優をやめて離婚して、こんなわけのわからない殺人事件に巻きこまれてろとでも言うの」 「君が決めることだよ、スージー。いやならすぐに出てったらいい。君と僕の関係は、世間のどこにでもある秘密の浮気ごっこにすぎなかったんだからな。ちょっと違ったのは、君が有名女優だったってことだけさ」  スージーのこめかみに青筋が立った。彼女は勢いよくからだからシーツをはぎとると、全裸のまま室内を横切ってウィリーの見ている前で乱暴に下着を身につけ始めた。 「あなたって人がどういう人だったか、いま初めて読めたわ。最低の野蛮人よ。もう帰るわ。そして二度とあなたなんかに会わないわ。秘密の浮気ごっこですって!? 私をばかにしてたのね。一人でこの死体と格闘してたらいいわよ。私は誰に何を聞かれたって、この事件とは無関係だって言い続けますからね。あなたひとりで処理してよ」  彼女はジャケットのボタンをとめ終えると髪の毛をかき上げ、サングラスをつけてつかつかとウィリーのそばに歩いて行った。 「もうさよならよ、ウィリー。せいぜい死体相手の謎《なぞ》ときごっこをお楽しみなさいな」  ドアを荒々しく開けてスージーは出て行った。ウィリーは、入念にドアのマジックアイから外をのぞき、彼女がエレベーターホールのほうへ去って行ったのを確認すると、悠然とドアチェーンをかけた。 「マーゴ」と彼は呼びかけた。  マーゴと呼ばれた白いスーツの女が目をぱっちりと開け、彼にウインクした。ウィリーが言った。 「ご苦労だったね。これで終わったよ。それにしても君の演技は相当なものだったぜ」 「無名の役者にしかできない演技よ。死んだふりをするのって、けっこう大変なのよ。呼吸法を変えて胸を動かさないようにしなきゃならないんだから」  マーゴは起きあがって大きく伸びをした。 「さ、これであなたは堂々とヘンリー・マーシャルの映画に出られるわ。うしろめたい気分も不安もなく……ね」  映画用の人工血液を白いスーツの上に光らせながら、マーゴは未来の夫であるウィリーの胸にとびこんで行った。  ヌーヌーのクリスマス  別れた夫、チャックが突然ミリーを訪ねて来たのはクリスマスイブの夜だった。友人のドリスが主催するクリスマスパーティーに行くところだったので、ミリーはひどい仏頂面《ぶつちようづら》をしてドアを開けた。 「もう来ないでって言ったでしょ。私、忙しいのよ」 「そうらしいな。左目のマスカラがまだついてないぜ」 「大きなお世話よ。何の用なの」 「ティナは何してる」 「会わせるもんですか。あんたみたいなひどい父親、もうあの子だって忘れてるわよ」  チャックは片方の眉《まゆ》を上げると大きく肩をすくめた。このジェスチュアは、まだ二人がうまくいっていた時はとても魅力的に見えたものだが、今のミリーには安っぽい強がりとしか思えなかった。  ミリーがチャックとの離婚にふみきったのは半年前。賭《か》け事《ごと》に狂って借金を妻に肩代わりさせる男についていく気はなかった。モデルの仕事もうまくいっている。一人で三歳になる娘を抱えて生きていく自信はあった。 「イブの晩くらい、中へ入れてくれたっていいだろ。これでも元の亭主だぜ」  チャックは品のない笑顔を作り、黄色い歯をむき出してみせた。ミリーは目をそらした。 「またお金を貸してくれって言うんでしょ。冗談じゃないわ。帰ってよ。これからドリスの家でパーティーがあるんだから」 「けっこうな身分だな。最近売れてるようじゃないか。お上品なCFの出演話もまとまりそうなんだってな」 「どこから聞いたのよ」 「俺《おれ》はずっと君のモデルクラブのマネージャーをしてたんだぜ。そんな噂《うわさ》はすぐ耳に入るさ。なあ、サクセスストーリーのミリーちゃん。頼むぜ。少し助けてくれよ。こっちはクリスマスだってのに干上《ひあ》がりそうなんだ」 「私には関係ないわ。帰って」  ミリーがドアを閉めようとすると、すかさずチャックが片足を隙間《すきま》にはさみ込んだ。 「いいのかい。そんな冷たいこと言って。俺、いつでも例の写真をお上品なCF制作関係者やスポンサーに送りつけることができるんだぜ。あられもない写真だよ。そうすりゃ君の出演もパアだ」  ミリーの手の力がゆるんだ。彼はドアを押し、中へ入りこんだ。子供部屋で遊んでいるティナを気づかいながらも、ミリーは彼の頬《ほお》に平手打ちをくらわせた。 「けだもの!」  チャックはふんと鼻でせせら笑い、ずかずかと居間へ入って行った。例の写真とは、チャックと恋愛時代、遊び半分で彼がミリーに卑猥《ひわい》なポーズをとらせて撮った写真のことである。彼女にもちあがっているCF出演の話は、高級化粧品会社のCFで、スキャンダルはご法度《はつと》だった。そんな写真をばらまかれたら、せっかくの大仕事もキャンセルされてしまう。  ミリーは居間に行き、憎悪にたけり狂いながら彼をにらみつけた。 「ごあいさつだな。平手打ちだけじゃ飽き足らず、にらめっこしようってのかい。貧しい人にはパンを与えよ……だ。昔は牝犬《めすいぬ》みたいに俺の前ではいつくばってみせてたくせに、今さら気取るなよ。俺があの写真を送ったら、君はポルノグラフィーの女王になれるさ。同じサクセスストーリーでもそっちの方が君に合ってるぜ」  チャックは含み笑いをしながら暖炉の上にある上等のコニャックの栓を抜き、うまそうに飲み始めた。  ミリーの怒りは頂点に達した。すべては一瞬の出来事だった。  気がつくとチャックが暖炉に顔を突っ込み、ぶざまな格好で倒れていた。後頭部からあふれ出た血が暖炉の中の火のついていないガスストーブをぬらしている。ミリーの手には大きな大理石の灰皿があった。 「チャック……」と彼女はふるえる声で呼びかけた。これほど強く殴りつけてしまったとは思わなかったのだ。前にも何度かやった夫婦ゲンカの時だって、互いによく暴力を使ったが、平然としていたではないか。  彼女はおそるおそる近寄ってみた。チャックは両目を大きく開いていたが、その目はどこも見ていなかった。  玄関ポーチの前に車が停まる音がしたのはその時である。クラクションがたて続けに三回、鳴った。ドリスのパーティーに行くモデル仲間の一人が、ミリーとティナを迎えに来てくれたのだ。ミリーは突然、我に返った。  灰皿を床に落とすと、彼女は渾身《こんしん》の力をこめてチャックの大きな身体を動かそうとした。だが少し頭と手が動いてくれただけで、あとはびくともしない。まるでストーブの上にうちあげられたマグロみたいだった。  ミリーはあわてた。玄関のチャイムが鳴る。 「いないの? ミリー! 私よ!」  子供部屋の戸が開く音がし、小さな足音がパタパタと響いた。ティナがやって来たのだ。ティナにこんな場面を見せてはならない。決して……。  ミリーは覚悟を決めて居間のあかりを消し、玄関へ向かった。呼吸を整え、ドアを開ける。 「もう仕度《したく》はできてるわ。すぐに出ましょう。ティナ!」とミリーは超人的な力をふりしぼりながら平静を装って、娘の名を呼んだ。襟元に毛皮のついた赤いビロードのワンピースを着た小さな女の子が走って来た。 「ねえ、ママ。いまヌーヌーのクリスマスをやってたのよ。ヌーヌーったらね……」  ヌーヌーというのは、ティナのかわいがっているクマのぬいぐるみである。ミリーは何も聞いていなかった。  ドリスの家でのクリスマスパーティーは内輪の人間ばかりが集まり、ホームパーティーのような気楽さがあった。ミリーはティナをペットのようにかわいがろうとする他のモデル仲間たちにまかせ、一人、青い顔をしてソファーにもたれていた。  大変なことをしてしまったのだ、という実感は、時がたつにつれて彼女をうちのめした。殺意がまったくなかったというと嘘《うそ》になる。しかし、本当に殺そうと思って灰皿を振り上げたのでは決してない。腹がたち、なんとかしてその怒りをぶつけたいと思っただけだ。  できることなら永遠にあの家へ帰りたくなかった。自分の家に自分が殺してしまった男の死体があると考えただけでぞっとする。しかし、帰らないわけにはいかなかった。今夜中にあの死体を何とか始末しなければならない。でもどうやって? どこへ?  こんなことなら例の写真をばらまいてもらったほうがましだった、とミリーは頭を抱えた。私は殺人犯だ。スキャンダルどころじゃない……。 「いったいどうしたっていうの、ミリー。まっ青《さお》よ」  ドリスが胸の大きく開いたラメ入りのドレスを光らせながら、ミリーのそばに来て言った。 「ちょっと風邪《かぜ》をひいたみたい。頭が痛くって」 「いまからだをこわしたら大変よ。大切なCF撮りがあるんだから。今夜は早く帰って寝たら」  とんでもない、と言うようにミリーは首を強く横に振った。 「今夜は朝までいるわ。せっかくのイブじゃない」 「そうね」と、ドリスはウインクした。「シャンペンを飲めば風邪もなおるわ」  素敵《すてき》な友達。可愛《かわい》い娘。私はどんなに人生を愛していることだろう……とミリーは思った。いやなこともいっぱいあったが、友達や娘の笑顔がいつも自分を助けてくれた。いつも身近に人の愛を感じていられた。  そう考えると、チャックの死体をどこかへ運び出して知らん顔を決めこむなんてことは、彼女にはとてもできないように思えた。一生、秘密を抱えて生きるのは彼女にはふさわしくなかった。彼女は人生を愛しているぶんだけ、人生に嘘《うそ》をつきたくなかった。  時計の針が十二時を回った。ティナはドリスのベッドで眠りこけている。会場では酔いのまわった連中が踊り出し、クリスマスツリーをひっくり返すばか騒ぎをやっていた。あちこちに笑い声がはじける。ミリーはそっと会場を抜け出し、ティナを抱き上げるとドリスに何も言わずに外へ出た。  仲間の一人が車のキイをつけっ放しにしておく癖があるのを知っていた彼女は、まっすぐに青いフォードの方へ向かった。案の定、キイはぶら下がったままだ。  ティナを後ろのシートに寝かせ、エンジンをかける。フォードは静かにすべり出し、ミリーの家に向かって猛スピードで走り続けた。  彼女は家に帰ってティナを寝かせ、服を着替えて警察に電話するつもりだった。  自宅まであと五百メートル、というあたりでパトカーが数台、赤ランプを点滅させながら交通規制をしているのが見えた。通行止めにしているようである。警官が手をふってミリーの車を停《と》めた。 「急ぐんです。通して下さい」 「申し訳ありません。この先で大きな事故がありましてね。迂回《うかい》してもらえませんか」  窓ごしに話しかけてきた警官は、ミリーと同い年くらいに見える若い男だった。ていねいな口調から察すると、ひと目でミリーが気に入ったらしい。彼女はこの男に話そう、と決意し、深呼吸してドアを開けた。 「あの、実は私、アーノルド……ミリー・アーノルドといいますが、さっき家で……」 「え? アーノルドさん? そりゃあ大変だ」  若い警官のあわてぶりは異様だった。声がうわずっている。 「まったくお気の毒です。クリスマスだというのに」  ミリーはほっとした。彼らはもう、死体を見つけてしまったのかもしれない。そのほうが話が早い。 「事故があったのは実はお宅なんですよ。それはひどい事故でして……」 「あの人が死んだのは……」  顔をゆがめてそう言いかけたミリーを完全に誤解して、警官は沈痛な表情をした。 「ご主人だったんですか。ガス爆発でお宅もろとも木《こ》っ葉《ぱ》みじんです。こんなことを言っては何ですが、解剖もできないありさまで……」  安堵《あんど》と驚きで気絶しかけたミリーに、目をさましたばかりのティナが走り寄って来た。 「ママ、ママ……。ヌーヌーのクリスマスだから早く帰ろう。ヌーヌーにもキャンドルつけてあげたんだから。ヌーヌー、ひとりでクリスマスなのよ」  その瞬間、ミリーにはすべてがのみこめた。チャックの死体を動かそうとした時、ガスストーブの栓がはずれてガスが家中に充満し、ヌーヌーのためにキャンドルをともしっ放しにしていたティナの部屋で大爆発をおこしたのだということを——。  人生最高のクリスマスプレゼントをクマのぬいぐるみからもらうとは……と、ミリーはティナの小さな手を強く握りしめた。  覚えのない殺人  あの気違い男が、アパートの前で毎朝、あたしを待ちぶせし、卑猥《ひわい》な言葉をあびせるようになってから七日たつ。 「ベイビー、朝からファックしたいって顔してるぜ。俺《おれ》が相手になってやるよ」 「今朝のドレスはいちだんとセクシーじゃねえか。ふるえがくるぜ、ベイビー」  毎朝毎朝、この調子だ。何の目的があってこんないやがらせをするのかわからない。もちろん一面識もない男だし、あたしのことを一方的によく知っている男とも思えない。警察に訴えたところで、相手にしてくれないに決まってる。ニューヨークの警察は、殺人か強盗でないと動き出してくれないのだ。  男は、その身なりからしてさほど素姓《すじよう》の悪い男にも見えなかった。わりに仕立てのいいトレンチコートを着て、よく磨かれた革靴をはいている。見ようによっては、ちょっとした会社のやり手営業マンタイプに見えた。 「ベイビー、ゆうべも男にあぶれたのかい」  八日目の朝、男は通りすぎようとするあたしの耳元で囁《ささや》いた。 「かわいそうになあ。あんた、男にもてないタイプなんだよ。俺ぐらいだぜ。声をかけてやるのは」  あたしは黙って歩き続け、角を曲がって男の目からも、他の通行人の目からも逃《のが》れると、そこで思いきり泣いた。心臓にぐさりとナイフをたてられたような気分だった。  男の言ったことは本当だった。あたしは生まれてこのかた、男にもてたためしがない。ハイスクール時代、好きなボーイフレンドに「君はパンプキン・パイみたいな女の子だね」と言われ、ほめられたのだと思いこんでいたら、友達が「あなた、つぶれたカボチャって言われたのよ」と教えてくれた。  容姿に恵まれず、恋人に恵まれず、そのうえ、何の才能もないときている。いま勤めている会計事務所も、太っちょ会計士の中年男がふたりいるだけで何の面白味《おもしろみ》もない。  かろうじて人並みのプライドがあるから、週末の夜、男あさりにシングルズ・バーあたりをうろつかないですんでいるけど、あたしみたいなパンプキン・パイは、もしかすると誰も相手にしてくれないかもしれない。  もうあと一か月であたしも三十歳になる。このまま、一生、あの古ぼけた、じいさんの額の皺《しわ》みたいなファイルを相手に、うんざりするような事務を続けていくのかしら。みんなに煙たがられて、のけものにされて……。  ひとしきり泣いてしまうと、あたしはショルダーバッグからハンケチを出して涙をぬぐった。鼻をかみ、次にコンパクトをのぞいて化粧を直した。深呼吸をした。空を見上げた。  突然、猛烈な怒りがあの男に対して湧《わ》き上がってきた。誰か知っている男に冗談半分に言われたのなら、まだ諦《あきら》めもつく。なのにあたしは、あの男のことを何も知らない。知っていることといえば、毎朝、あたしを待ちぶせて、わけのわからない卑猥な言葉を投げつけてくる男……ということだけだ。  たったそれだけの、まるで取るに足らないクズのような男に、どうしてあたしはばかにされてなきゃいけないのだろう。しみったれた額の給料だけをもらうために、アパートとオフィスを往復し、女らしい楽しみのほとんどを諦めて暮らしているこのあたしが、いったいあの男に何をしたっていうんだろう。こんな、いわれのない言葉の暴力を浴びせられて黙ってるなんて、もうたくさん!  あたしは、何が何でも男の正体をつきとめてやろうと決心した。まだそんなに遠くへは行っていないはずだ。  大急ぎで角を曲がる。人混みにまぎれそうになる男の後ろ姿をけん命になって追いかける。  十分ぐらい、そうやって歩いただろうか。男はふと、いかめしいビルの回転扉を押して、中に消えていった。そのビルを見上げて、あたしは固唾《かたず》をのんだ。何かの見まちがいかと思った。そこは、アメリカで有数の大手貴金属会社、J・M社の本社ビルだったのである。  翌日からあたしの生活は一変した。それまでうんざりしていた�朝の行事�も、楽しく味わえるようになった。オフィスにいても、気持にハリが出てきた。  あたしは銀行に行って、貯金を半分おろした。もったいないと思う気持は、不思議なことにまるで湧かなかった。どうせケチケチとためこんでいたって、この貯金で一緒にフロリダヘ行ってくれる男なんかいないのだ。この際、きっぱりと使ってしまったほうがかえって気分がいい。  男のあとをつけた日から三日後、あたしは五時きっかりにオフィスを出ると、あらかじめ目星をつけていたJ・M社のそばにある私立探偵事務所のドアをたたいた。  探偵は、四十がらみの狡猾《こうかつ》そうな男だった。 「金さえもらえれば、何でも極秘で引き受けます」と、彼は言った。あたしは「お金はある」と前置きしてから、事情を話し、毎朝、あたしのアパートの前に立っている、J・M社の社員らしき男を調査してほしい……と依頼した。  二日後、探偵はいち早く情報を与えてくれた。 「すぐわかりましたぜ。名前はジョン・C・ロバーツ。三十五歳。スタンフォード大学をけっこうな成績で卒業している。妻と子供ふたり。どこをたたいても埃《ほこり》の出ない大した野郎ですよ」  さらに三日後。 「お気に召す情報かどうかわからんが、ロバーツの妻は、J・M社の副社長の娘なんだ。どうも上品ぶった家系らしいですぜ。奴《やつ》があんたに妙なことをしているのも、そのうっぷん晴らしじゃないんですかね。ま、このままいけば、奴は出世コースをとんとん拍子ってわけだ。どうです。少しは価値のある情報でしょうが」  探偵はあたしの気持を見すかしたように、ニヤリと笑った。あたしは目的達成まであと一歩だと感じた。  次の日から、あたしはせっせとタイプを打って、�嘆願書�を作成し続けた。受取人は、ロバーツの妻。内容は簡単だった。あたしとおたくの御主人は愛し合っている。実は子供までできてしまった。ついては、奥様に離婚していただきたく……というもの。  そしてもう一通は、J・M社の副社長あてに、ロバーツとの間にできた子供の写真(もっともあたしの姉が先日、生んだ赤ん坊の写真だけど)を同封し、「このような具合ですので、お嬢様とロバーツの婚姻解消を認めて下さるよう……」と書いた。  差出人の氏名、住所はもちろんデタラメ。この二種類の手紙をあたしは、一日おきに五回も、繰り返して投函《とうかん》してやった。胸がすく思いだった。恵まれた環境の男に、あんなにばかにされたと思うとなおさら腹立たしい。ふだん上品ぶっているから、ああやって見知らぬ女を相手に下品な言葉を浴びせては面白がるのだ。とことん、たたきつぶしてやらなくては。  手紙を出すようになってから、男はアパートの前に姿を見せなくなった。あたしは勝利感に浸った。いまごろ大騒ぎになっているんだ。いい気味。二度と、あいつはあたしの前に現われないだろう。  こんな満足は久しぶりだった。あたしは珍しく新しいドレスを買い、それを着てオフィスヘ行った。連中はほめてくれた。お世辞でもいい。気分のいい時は、何でも心から喜べる。  そんなある日、驚くべきことがおこった。アパートで夕刊を読んでいたあたしは、思わず食べていたチョコレートボンボンを飲みこんでしまいそうになった。 「J・M社のロバーツ氏、自殺。ロバーツ家では、ここのところ家庭内のいざこざが絶えず……」  あたしは、さすがにうしろめたい気持になった。何も死ぬことはなかったのに。こんなに気の弱い男だとは思わなかった。でも、別にあたしが殺したんじゃない。あんなことをするからよ。自業自得《じごうじとく》なんだ。  翌朝、あたしは少し滅入った気分で外に出た。雨が降っている。なんだか、いつものあの場所に、男の亡霊が立っているみたいだ。あたしは恐ろしくなって傘で視界をさえぎった。その時である。 「久しぶりだねえ、ベイビー」  振り返ったあたしは目を疑った。あの、死んだはずの男が、またしても……。 「おや、何をそんなにびっくりしてるんだい。そんなに俺に会えて嬉《うれ》しいのかい。ちょっとロンドンに行ってたんだ。どうだい。俺のいない間に、ファック相手は見つかったかい」 「あ、あんた。J・M社のロバーツじゃなかったの」 「なんだい、それは。俺はそんなエリートじゃねえよ。もっとも俺のボスの家は、あのビルの裏にあるけどよ。ボスんところに行く時は、あのビルを通り抜けるって寸法さ。ベイビー、どうしたんだい。ゆうべ、やりすぎたみてえな顔してるぜ。今日こそ俺が……」  あたしは傘を投げ出し、雨の中をアパートまで走った。階段を駆け上る。部屋のドアを開ける。息を切らしたまま、電話に飛びつき、探偵事務所の番号を回した。 「ああ、あんたかい。カラクリがわかったようだね」と、探偵は落ちつき払った声で言った。 「私は以前、J・M社のロバーツと酒場で大ゲンカし、ぶんなぐられて鼻の骨を折ったことがあるんでさ。警察はエリートの言うことを絶対に信じるからね。奴の代わりに私がブタ箱に入れられ、あげく、それまでいた会社もチョンさ。その時から私は、奴に必ず復讐《ふくしゆう》してやろうと思っていた。この事務所をJ・M社の近くに開いたのもそのためだ。そこに飛びこんで来たのがあんただった。アパートの前の卑猥野郎を、あんたはJ・M社の社員だと信じていた。私は早速そいつをロバーツに仕立てあげ、私の代わりにあんたに復讐してもらったってわけさ」 「だって、その人、自殺までしたのよ」とあたしは泣きながら言った。 「知りませんな。死にたい奴は死ねばいい。あのブタ野郎を殺してくれたあんたに、心から感謝しますぜ。もう二度とあんたに会うこともないだろうが、まあ、達者でな」  電話は一方的に切れた。ベランダに当たる雨の音がひときわ強くなった。あたしはへなヘなとその場に崩れ落ちた。  訪ねてきた女  夕食後のコーヒーをたてながら大きな音のげっぷをすると、鼻の中に何やら獣くさい匂《にお》いが立ちこめた。またハーディーの店が、ハンバーグの中にめいっぱいの馬肉を入れやがったのだろう。あこぎな男だ。  もっとも、馬肉ハンバーグを食わされて文句ひとつ言わないのは、このへんでは俺《おれ》くらいのものだ。この間もハーディーの店で、オムレツの中に虫が入っていたと言ってテーブルをひっくり返して怒り、店主とつかみ合いをやった男がいたが、そういう奴《やつ》の気が知れない。俺なら黙っていただろう。他人と関《かか》わり合わずにすませるためだったら、オムレツの中の虫くらい喜んで食ってやる。  俺はコーヒーをすすり、たばこに火をつけた。時計を見ると十時。開け放した窓から、しっとりと湿気を帯びた風が入ってくる。失業者と遊び人ばかりが借りているこのアパートは、こういった時間帯はいつもカラだ。夜の十時にパブにも行かず、自室にこもっていて退屈しない高尚な野郎などいないのである。  おかげで毎晩静かだし、まったくいい気分だ。こういうひとりぽっちの生活も本当に悪くない。 「悪くない」と俺は声に出してみた。時々、このように独り言を言うのが俺の癖だ。自分が唖《おし》でないことを確かめたいのかもしれない。  何しろ今日だって声を出したのは、たったの二回。一回は、朝、いつものようにビルの掃除をしていて、太ったばあさんに「トイレはどこ?」と聞かれた時。そしてもう一回は、ハーディーの店のハンバーグを注文した時。  どこかの出版社で『喋《しやべ》らなくても生きられる』という題の本を出す予定はないのだろうか。俺が書けばベストセラー間違いなしだ。  そんなことを考えて、テーブルの上の読みさしの本を取り上げようとした時である。窓の下でドスンという大きな音がした。何か大きなやわらかい物が落ちたような音だった。俺はたばこをくわえたまま、窓辺に寄ってみた。  暗いうえに雨が降っていてよく見えないが、路上に男が倒れている。傘が遠くに投げ出されているところを見ると、車にはねられたのだろう。俺は窓から首を出して、あたりをうかがった。案の定五十メートルほど先にライトグリーンのフォードが止まっていて、今まさにドライバーが降りてくるところだった。  若い女だった。女は、つま先立つような歩き方をして、恐る恐る自分がはねた男の様子を見に来た。街燈の光が女の顔を映し出した。なかなかいい女だ。 「かわいそうに」と俺は思った。若い身空で人をはねて。前科者だぜ。  女はかがんで男の顔などを点検していたが、いきなり姿勢を元に戻してキョロキョロし始めた。女の目と俺の目が合った。雨に濡《ぬ》れた険しい顔が、三階にいる俺をにらみつけた。  しかし、それだけだった。女は何事もなかったかのように視線をはずし、もと来た場所に引き返した。ドアの閉まる音がした。エンジンがかけられた。車はあっという間に走り去った。あとには、路上に転がってる気の毒なおっさんと俺と雨の音だけが残された。  俺は窓辺で肩をすくめた。何てこった。こんなに堂々としたひき逃げも珍しい。しばらくの間——といってもほんの一、二分だが——俺はあの女のことを考えた。だがすぐに関心も薄れた。面倒なことは一切、御免だ。どうせあと二時間もすれば、バカどもがこのオンボロアパートに、街でひっかけた得体の知れない女を引きずりこんで来るのだ。あのおっさんもじきに発見されるだろう。  ベッドにもぐりこんでスタンドの灯の下で本を読んでいると、外がやかましくなった。俺はぴったりと窓を閉め、シェードを降ろし、そしていつしか眠りにおちていった。  どのくらい眠っただろうか。深い眠りから無理矢理、たたき起こされるような不快感に襲われて目がさめた。  誰かがせわしく部屋のドアをノックしている。朝の四時半だ。どうせ階下の酔っ払いが部屋を間違えてるんだろう。以前にも同じことがあった。俺はベッドの中から怒鳴った。 「うるせえな! 部屋を間違えるな!」  だが、ドアの外にいるのは酔っ払いではなかった。 「お願い。開けてくださらない?」  瞬間的に俺はピンときた。あの女だ。そうに違いない。どうすべきか。追い返すほうがいいに決まってる。泣き言を言われてはかなわない。 「おやすみのところ、起こしちゃって申し訳なかったわ」  妙な好奇心に負けてドアを開けてしまった俺に、さっきの女が晴れ晴れとした顔で笑いかけてきた。 「ごらんになっていたようね」 「さあね」と俺はぶっきらぼうに言った。 「関わり合いをもちたくないんでね」 「私もよ。で、今回はそのことで伺ったの。入っていい?」  俺がドアのノブから手を離すと、女は堂々とした足取りで部屋に入って来た。着ているものといい、身のこなし方といい、ちょっとした階層の女に見える。このあたりじゃ、あまりお目にかかれないタイプだ。  彼女はろくすっぽ俺の部屋に関心も持たず、いきなりキッチンの椅子《いす》に腰かけて一枚の紙切れを差し出した。 「何だい」 「一万ドルの小切手よ。差し上げるわ」 「へえ」と俺は、まじまじと女を見た。虫も殺さぬ貴婦人のような顔をして、この女、なかなかすれたことをする。 「口止め料ってわけか」 「そういうわけでもないの。警察が来たらあなたに言っていただきたいことがあってね」 「ひき逃げの犯人はニワトリでした、とでも言えってのかい」 「ニワトリなんかじゃダメよ」と女は、余裕たっぷりに笑った。 「見た通りのことを正直に喋ってほしいの。ただし運転者とナンバーだけは見えなかったってことにしてね」 「じゃあライトグリーンのフォードだったってことは喋っていいわけか」 「言ったでしょ。見た通りのことを言っていいのよ。嘘《うそ》をつく必要はないわ」  女は意味ありげに俺を見た。俺も女を見た。女の魂胆はわかった。  嘘をつくわけじゃなし。女のことを除いて見た通りを証言すれば一万ドル。万一の時も俺が罪に問われることは決してない。けっこうな話じゃないか。一万ドルあれば、あんなちっぽけなビルの清掃の仕事にもオサラバして、ニューヨークに行ける。あそこには俺の新しい人生があるかもしれない。 「オーケー」と俺は言った。交渉はそれで終わった。女は出て行き、俺は白み始めた窓の外を見ながら、ひとりバーボンで祝杯をあげた。  朝八時ころ、俺が仕事に行こうとして上着を着ていると、刑事がやって来た。俺は女と約束した通りに�正直に�喋った。刑事はすっかり信用したようだった。そりゃあ、そうだ。本当のことなんだから。  このあたりでは俺は�変人�で通っているので、すぐに警察に通報しなかったことも別にとがめられなかった。万事、上々だった。  その日から二日間は何もおこらなかった。俺はニューヨーク行きの準備を始めた。  三日目の夜、ハーディーの店でいつものようにまずい夕食を食べていると、ハーディーが新聞を持って来た。 「おまえさんとこの前で人をひき殺した野郎がつかまったとさ。本人は否定してるってんだがね。あてになるもんか。なんせ、こんな妙ちきりんな色のフォードに乗る野郎は、この町中を探したってそうそういるめえよ。おまえさんの証言は大いに役にたったってわけだ」  俺は黙ってその新聞を見た。逮捕されたのは「ライトグリーンのフォードに乗った�男�」だった。  新聞をハーディーに返し、俺はハンバーガーサンドにライトグリーンのケチャップをたっぷり塗った。あの女の乗っていた車と同じ色のケチャップだ。 「しかしそれにしても」と、俺はハーディーに聞かれないようにつぶやいた。 「あの女、どうやって調べたのだろう。俺が色盲だってことを」  無邪気なものまね 「フィッシュー・トゥ?」  二歳になる娘、キャンディがそう言ってかわいらしく首を傾《かし》げてみせた。 �また始まった�と、母親のマリアンは背中を冷たいものが流れるのを感じた。  キャンディのこの口癖が始まったのは、一か月ぐらい前からである。初めは何のことかよくわからなかった。なにしろ言葉を覚え始めたばかりの子供の言うことである。何の意味もない言葉……おそらくTVかラジオで見聞きした何かの言葉を語呂《ごろ》がいいから気に入って使っているだけのことだろう。  マリアン自身にも経験がある。彼女はやはり二歳のころ、「クククカーカー」と言うのが口癖だった。あとで母親に聞いたところによると、それはTVの�ウッドペッカー�というキツツキの出てくる漫画を見て覚えた言葉で、キツツキの鳴き声をまねしていたらしい。  言葉を覚えたての子供はすさまじい勢いで周囲にとびかう言葉や音を吸収していくものだ。それがある時期、口癖になり、何度も繰り返しては親を喜ばせたり驚かせたりする。キャンディの「フィッシュー・トゥ?」も同じだろう。少なくともそう彼女は信じたかった。  夫のウォルターは娘が、「フィッシュー・トゥ?」をやるたびに、手をたたいて喜んだ。 「いいぞ、いいぞ、キャンディ」と、彼は目を細める。 「もう一回、パパにやってくれるね。もう一回だけ。頼むよ」  自分が父親の関心を一身に集めていることを知ると、キャンディは有頂天《うちようてん》になって何度でも繰り返してみせた。 「フィッシュー・トゥ? フィッシュー・トゥ?」  マリアンは聞いていられなくなって、そっとその場を離れ、キッチンヘ逃げ出す。夫がはやしたてる笑い声を聞くだけで、恐ろしさに身のすくむ想いがするのだった。 「いまや貞淑な妻なんてはやらないのよ」と、彼女をけしかけてきたのは大学時代からの親友であるケイトである。ケイトはジャーナリストとして活躍しており、「一瞬のセックスは生涯の結婚にまさる」という自己流の人生哲学を頑固に守り続けている女だった。  週末になると彼女は男をハントするために盛り場やパーティー会場を荒らしまわり、必ずため息の出るほどハンサムな男をつかまえては、ウィークエンドを共にした。そして二週続けて同じ男を伴っているのは見たことがなかった。  そのケイトのことを内心、どこかで羨《うらや》ましいと思っていたマリアンが、夫の出張中、彼女に誘われて、破目《はめ》をはずす決心をつけたのもごく自然の成りゆきだった。 「たった一回だもの」と、ケイトが片目をつぶってみせた。 「ウォルターに知られるわけがないでしょ」  キャンディを寝かしつけてから、マリアンはケイトと共にシングルス・バーヘ出かけた。初めから情事を目的に男を捜すのは、結婚相手や恋の相手を捜すよりずっと楽だった。生理的に気に入りさえすればいいのだ。男のほうも心得たもので、お楽しみのあとは何のあとくされもなく別れてくれる。ケイトによると「あとで街でバッタリ会っても知らんぷりしてくれるほど」だそうだ。  そんなわけでマリアンは楽な気持でアバンチュールを楽しむことができた。相手はすぐに見つかった。自分より少し年下の、なかなかセクシーな男だった。幾分、野卑《やひ》な言葉使いをするところが、夫のウォルターでは味わえないある種の期待をマリアンに与えてくれた。  男の名はフィッシャーといった。そもそもの間違いはフィッシャーとのアバンチュールの場所に、マリアンが自分の居間を選んだことにある。  彼は初め、自分のアパートに来ないかと誘ってきたのだが、彼女は見知らぬ男の部屋に行くのは気がひけた。というよりも、男が生活している場所に行くとほとんどの場合、幻滅する、というケイトの忠告を真《ま》に受けたからだ。 「幻想が消えるのよ」と、ケイトは言っていた。 「いくらきれいな部屋でも、シーツにコーヒーのしみがついていたり、枕《まくら》がフケの匂《にお》いでいっぱいだったりするとね。わかるでしょ」  マリアンはそれをもっともだと思った。だから自宅に呼んだのだ。  居間のソファーに彼を坐《すわ》らせ、上等のコニャックを飲んだり、とりとめもないことを喋《しやべ》ったりしているうちに、まもなくフィッシャーは彼女を抱き寄せてきた。弾力のある筋肉質のからだ。やさしいが力強い腰の動き。  マリアンは我にもあらず、つい夢中になり、男に言われるままに「フィッシャー、フィッシャー」と彼の名を呼び続けた。彼は愛の行為の最中に、自分の名を呼ばれるのがことのほか好きだったのである。  夫はあと二日たたないと帰らない。キャンディは二階でぐっすり眠っている。家に入るところを近所の誰かに見られることもなかった。あとはこの男をこっそり帰してしまえば何の問題もない。二つのグラスは洗ってしまえば使ったことなどわからないし、明日、クッションカバーを替えておけばソファーに男の体臭が残るはずもない。  フィッシャーという男はかなり遊びなれているらしく、うるさい質問を発して彼女のプライバシーを詮索《せんさく》してくることはなかった。 『ケイトの言う通りだ』と、マリアンは男に抱かれながら思った。 『こういうことに手慣れた男はすべて心得てくれてるんだわ』  すっかり安心しきって目をつぶろうとした時、彼女は居間のドアが開いているのに気づいた。ギョッとして上半身をおこすと、ドアのそばにキャンディがパジャマ姿のままで立っているのが目に入った。  動転したマリアンは男をはねのけ、男の脱ぎ捨てたジャケットをはおりながらキャンディのもとへ走り寄った。 「いい子ね。寝ましょうね。ママはお客さんのお相手をしなくちゃいけないの」  キャンディは目をしょぼしょぼさせながらマリアンを見上げた。寝呆《ねぼ》けているらしい。小さな子にはよくあることだ。マリアンは少しほっとし、男に向かって言った。 「ちょっと待ってて。寝かしてくるから」 「フィッシャー」  その時キャンディが、ひとりごとのようにそうつぶやいたのをマリアンは確かに聞いた。 「フィッシュー・トゥ?」  キャンディが首を傾げた。ウォルターは飽きもせずそれを繰り返させては笑いころげた。 「なあ、マリアン」  ウォルターが視線を娘に釘《くぎ》づけにしたまま嬉《うれ》しそうに言った。 「こりゃいったい何なんだろうね。魚が二匹……かな。それとも何か動物の鳴きまねかな」 「知らないわ」と、マリアンはいらいらして言った。 「どこで覚えたか知らんが、キャンディがやると天使みたいにかわいい」  ウォルターは鼻の下をのばした。だがマリアンにはわかっていた。キャンディの言う�フィッシュー�というのは、魚でも何でもない、�フィッシャー�という男の名なのだ。  あの時、この子は居間のドアのところでしばらく私とあの男がすることを見ていた。私がフィッシャー、フィッシャーと叫ぶのを聞いていたのだ……。 「フィッシュー・トゥ?」  またもやキャンディがそう言った。マリアンは耳をおおい、「やめなさい!」と怒鳴った。 「もういい加減にして! あっちへ行きなさい!」  キャンディは火のついたように泣き出した。 「どうしたっていうんだ。マリアン」  ウォルターが不審げな表情で彼女を見た。 「変だぞ。たかが子供のお遊びじゃないか」 「お遊びですって!? 違う。違うのよ。ウォルター、あの子、知ってるから言うのよ」 「何を知ってるって?」  マリアンはこれ以上、隠しておけない、と思った。ウォルターがどんな反応をするかわかっている。しかし、こんなに大きな秘密を抱えていて、日夜、わが子にその秘密を繰り返されていてはたまらない。気が狂ってしまう。  彼女は意を決して、泣きながらすべてを夫に打ち明けた。夫の反応は思っていた通りだった。彼は大変おちついていて、立派だった。 「しばらく別居して、今後のことを決めたほうがよさそうだな、マリアン。僕はそういうことに耐えられる性格じゃないんだよ」  それから一週間後、ウォルターがみつけた小ぎれいなアパートに引っ越すことになったマリアンは、荷造りを終え、放心状態でソファーに坐っていた。ウォルターは軽蔑《けいべつ》以外の何ものでもないという目をして、彼女を見おろした。 「生活費は当面、月末に君の口座に振り込む。何か足りないものがあったら言ってくれ。キャンディとの面会は月に一回。あとは弁護士がうまく処理してくれるだろう」  彼女は黙ったままうなずいた。涙があふれてきた。  何も知らぬキャンディが二人のところに走って来て、TVのスイッチを入れた。マリアンは何気なく画面に目をやった。コマーシャルが流れてきた。 「歯をむき出して笑ってみて下さい」と、ものすごい大きなオッパイをしたブロンドの美女が小首を傾げて言う。入れ歯接着剤のコマーシャルだ。 「How is your artificial tooth?(あなたの入れ歯はどうですか)」  キャンディが嬉しそうに両親を見、ブロンドの美女と同じように小首を傾げてみせた。 「フィッシュー・トゥ?」  その瞬間、すべての謎《なぞ》がとけた。と同時にマリアンは自分が、世界一、頭が悪く、想像力のない母親であったことを認めた。  キャンディの言う「フィッシュー・トゥ?」は、フィッシャーのことではなく、「Artificial tooth」——即ち、入れ歯のことだったのである。  ボン・ボワイヤージュ  病院勤務の外科医、リー・アダムスのところにその郵便物が届いたのは十二月の初めのことである。  差し出し人は、サンライズ・グループ、ニューヨーク支社。金色に縁取られた大判の封筒を開けると、いきなりクリスマスカードみたいな派手《はで》な文字が目に飛びこんできた。 「おめでとう! あなたをカップルで新春のエーゲ海クルーズにご招待します!」  はて、こんなものが当たる懸賞か何かに俺《おれ》は応募したのだろうか。何かの間違いではないだろうか。  いぶかりつつ封筒の表書きを見ると、確かに宛名《あてな》はリーの名になっている。病院名も同じだし、別人にあてた手紙が誤送されてきたものではなさそうだった。 「当社サンライズ・グループの船の旅では、四十組のカップルがゴージャスに、和気藹々《あいあい》と華麗な空間を楽しむための様々な企画をご用意いたしました。参加者は、各界から選び抜かれたあなたさまのような紳士淑女ばかり。安心して四泊五日の船の旅をお楽しみいただけます。参加ご希望の方は、今すぐ当社へお申し込み下さい。先着順に受け付けます」  なんだ、とリーは苦笑した。ただのダイレクトメールじゃないか。  封筒ごと丸めて屑《くず》かごに捨てようとした時、ふっとリーの目が二枚目の用紙にとまった。 「これまでの参加者たちの声をお聞き下さい」として、次のようなコメントが写真入りで載っていたからだ。 「ホプキンス夫妻(夫、大学助教授、35歳。妻、29歳)。  本当に参加してよかった。まるで夢のように過ぎていった五日間でした。私たちは旅行好きですが、こんなにすばらしい旅をしたのは生まれて初めて。おまけに現実生活の煩わしいことからも解放され、私たちはこの春、ウェディングベルを鳴らすことができました。すべてはこのファンタスティックな旅のおかげです」 「マンシング夫妻(夫、弁護士、42歳。妻、25歳)。  私たちは昨年、二度目の結婚をしました。エーゲ海は美しく、青く、私たちの愛を深めるために一役も二役もかってくれたのです。生涯の伴侶《はんりよ》を得るためにこのくらいの出費は安い。安すぎるくらいです。ぜひ、皆さんにもサンライズ・グループの旅に行かれることをお勧めします」  まるでこの船旅がキューピット役を果たしてくれると言わんばかりだった。エーゲ海で愛《いと》しい人とニューイヤーズデイ……。そりゃあ愛も深まるだろう。リーはモニカと自分が船の上で、髪をなびかせながら海を見ている様子を想像し、心浮き立つ気分になった。  その時、部屋にノックの音があった。返事をするとドアから可愛《かわい》い顔がのぞいた。モニカである。 「あら、誰からのラブレター?」 「まさか」と、リーは笑い、モニカを抱き寄せた。病院内でもこのリーの個室には、滅多に人が訪れて来ない。複雑骨折で入院中の患者、ジョージに付き添っているジョージの恋人、モニカと密会するのに、ここは最適だった。 「会いたかったよ。今日は一度も顔を見せてくれなかったね」 「午前中に来たのよ。でも回診中だったわ。そのあとは手術……忙しすぎる先生ね」 「そのうえ、君のことでも忙しく胸をときめかせてる。本当に忙しいよ」  リーは片手に封書を丸めたまま、もう一度彼女を強く抱きしめた。 「ねえ、リー。私の背中でカサコソと音のしている手紙は何なの」  モニカがいたずらっぽい目で彼を見上げた。その時リーは、年末年始にバカンスを多目にとって、彼女とこの船の旅に参加するのも悪くない、と思った。寒いニューヨークを離れて、モニカと二人、思いきり太陽を浴びに行くのだ。これはいいぞ。  封書を見せると、モニカは喜びながらもふっと暗い表情をした。 「でもジョージが何て言うか。私、あの人にまだ別れ話もしてないし、あの人、私とあなたがこうなってるってこと、これっぽっちも知らないのよ。退院するまで秘密にしとこうと思ってたわ。まさか、私がジョージの担当医と恋をしてるだなんて、今は言えない」 「こんなふうに言っては何だけど」と、リーはまじめな顔でモニカを見つめた。 「君ももう少し大人《おとな》にならなくちゃ。彼の退院まで君は恋人芝居を続けるつもりかい。年末年始、付き添いを休んで友人と旅行に行くと言ったっていいんだ。少しずつ彼も気づくよ。それに彼はベッドの中。君を追いかけては来られないさ」 「ひどい人。でもその通りね」  モニカはうるんだ瞳《ひとみ》でリーの頬《ほお》にキスをした。リーはすぐにサンライズ・グループに申し込みの電話を入れた。  小型だが豪華な客船はサンライズ・グループのために貸し切られていた。  リーとモニカのあてがわれた客室は特等室。広々としたリビングルームとそれに続くベッドルーム、バス・トイレからなっている。調度品はエーゲ海の青さとよく調和したアイボリーホワイトで統一され、シャギーカーペットはふかふかで、足が吸いこまれそうだった。  毎夕食時には、人々は思い思いの盛装をしてダイニングルームに集まってくる。メニューは鴨《かも》のステーキ、鹿《しか》肉のソテー、キャビアなど高価なものばかり。食後のコニャックは飲み放題だったし、グラス片手にカジノルームヘ繰り出すカップルで船上の夜はいつまでも華やいでいた。  昼間はデッキでの日光浴。プールでのひと泳ぎ。それに飽きたらビデオルームで好きな映画を好きな時間に観賞できる。探偵小説を数冊持ってきたリーとモニカも、読んでいる暇がなかった。本など読むより、二人で船の旅を満喫していたかったのである。  三日間があっという間に過ぎた。四日目の夜、モニカは子供のように半べそをかいた。もっとこの旅を続けたい、と言うのである。リーは、笑いながら彼女を慰め、せめて最後のフェアウェルパーティーを楽しもうじゃないか、と言いきかせた。モニカはゴールドのラメの入ったチャイナドレスを着、鼻をすすりあげながら「今夜は思いっきり楽しむわ」と、タキシード姿のリーの腕に手を回した。  パーティー会場は、女性たちの香水の匂《にお》いとカクテルの匂いが混じり合い、始まる前から熱気に包まれていた。驚いたことに小編成の楽団も用意されており、シュトラウスのワルツを演奏している。早々と踊り出しているカップル、歓談しているカップル、それぞれ皆、上気した顔をしてこのうえなく楽しそうだった。 「何てすてきなの」と、モニカが言った。 「本当にこの旅行は最高だわ」  リーも心からうなずいた。多少、値ははったが、モニカと参加して本当によかったと思った。こんなにすばらしい旅なら金を惜しみたくない。  パーティーもたけなわとなったころ、司会者がマイクの前に立った。 「紳士淑女の皆さん。私どもサンライズ・グループの企画したもっとも楽しいイベントが用意されております。名付けてサンライズ・ビンゴ! そうです。すばらしい賞品の当たるビンゴゲームです。さあ、今すぐお手元にお配りする数字カードにご注目ください」  参加者たちは一斉に拍手し、各々、会場の隅に並べられた椅子《いす》に坐《すわ》った。ゲームの進行係が各カップルに数字の書かれたカードを配り、配り終えるとマイクに向かった。 「皆さん。恒例のサンライズ・ビンゴでは、今、お配りしたカードの裏に日頃《ひごろ》、うっとうしいと思っている人物のことを簡単に書いていただくことになってます。あくまで簡単で結構です。ゲームのひとつですから」 「それとビンゴゲームとどういう関係があるのかな」  進行係の近くに坐っていた白髪の紳士が無邪気に聞いた。 「それはあとのお楽しみです」  進行係はにっこり笑ってウィンクした。会場内が少しざわめいたが、皆、この風変わりなゲームに興味津々《きようみしんしん》の様子だった。 「うっとうしい人物ねえ。誰がいるかな」  リーは配られたエンピツをなめなめ、モニカに言った。 「そうねえ。家主かな」 「君の家主はどうしてうっとうしいの」 「だって家賃の支払いについてうるさいんだもの」 「家主よりうっとうしい奴《やつ》がいるだろ」 「え?」 「ジョージだよ」 「あら」とモニカが目をくりくりさせて言った。「それもそうね。ジョージにしましょう」  二人はくすくすと笑いながら、カードの裏にジョージの名を書いた。  ゲームはすぐに始められた。数字が発表されるごとに、会場内は笑い声と歓声で大騒ぎとなった。次々と脱落していくカップルたち。はずれたカップルは、別段残念がりもせず、グラス片手に面白《おもしろ》そうに成り行きを見守っている。  リーとモニカはリーチに至った。モニカは興奮しすぎてチャイナドレスのスリットを大きく開き、リーをハラハラさせた。 「ビンゴ!」  モニカが立ち上がって叫んだ。拍手がわきおこった。 「信じられない。ビンゴよ!」 「おめでとう。アダムスさんカップルが今回の優勝者と決定しました」  進行係の手招きで二人はステージに上がった。拍手と共に賞金を受けとり、二人はステージの上でキスし合った。  ステージを降りると、一人の小太りの女性が近づいてきた。 「おめでとうございます。私、昨年度のビンゴ優勝者、ホプキンスです」  ホプキンスという名とその顔に覚えがあった。リーは、「ああ、あなたでしたか。パンフレットに載ってたのは」と微笑《ほほえ》みながら握手を交わした。 「あなた方お二人にはもう一つ、特別賞が用意されてますのよ」 「ほう。それはラッキーだ」と、リーはモニカと顔を見合わせた。ホプキンスという女は流れるように話し始めた。 「このサンライズの会は二十年前に発足しましたの。現在、会員は全国に約二千人。すでに千組のカップルがゲームに優勝することによって幸福になってきました。支社は世界中に五十社あります。すべての知能と職業、それに国籍がそろってますので、どんなことでもできますわ」  リーは女が何を言っているのかよくわからなかった。 「で、伺いますけど、特別賞っていうのはそれと何か関係があるんですか」  女は口に手を当てて上品に笑った。 「あなた方のカードの裏に書いてあることがヒントですわ」 「は?」 「私の場合は去年、結婚に猛反対していた夫の父親が急死いたしました。心臓発作でしてね。そしてほら、あそこにいらっしゃるご夫婦ですが……」  女の指さす方向には、中年の紳士と若くグラマーな女がニコニコしながらこちらを見ていた。 「弁護士のマンシングさんご夫妻ですが、一昨年のビンゴ優勝者です。あの方も離婚を承知しなかった元の奥さんが、事故で亡くなられましてね」  目撃者の三つの目  サイモン・アボットをどう始末するかが、三人に残された問題だった。エドは言った。 「ともかく殺《や》っちまえばいいんだろ。銃なら簡単に手に入るさ。一発ぶちこんでそれで終わりにしようぜ」  エドが銃を撃つ時の真似《まね》をしてみせたので、アボット夫人であるサンディーは震え上がった。 「おいおい、サンディー。ここまできてやめようってんじゃないだろうな」 「違うのよ、エド」と、サンディーは姿勢をただして言った。「怖がってるんじゃないのよ。ただちょっとびっくりしただけ。あの人を殺《や》ってしまうのにこしたことはないと思うわ」 「そりゃそうさ。ただ問題は」と、エドがTシャツの袖《そで》をまくり上げ、見事な筋肉質の腕を見せながら言った。 「何があっても決して俺《おれ》の顔を見られないようにすることだ。万が一、サイモンの命が助かってしまった場合、警察は奴《やつ》の証言をもとに前科者リストを洗うだろう。そうしたら一発だ。何しろ俺は前科者だからな」 「でもサイモンは片目だから、あんたの顔はよく見えないよ」と、サンディーの弟、ジャックが言った。幼いころ大病をして知恵の遅れている彼は、ギャングごっこでもしているかのようにはしゃいでいた。新しいことなら何でも首をつっこむのだ。サンディーが呆《あき》れたようにジャックをたしなめた。 「ばかね。いくら白内障で片目がつぶれてたって、もう一つはちゃんと見えてんのよ。ちゃんと毎日、疲れ目用の高価な目薬もさしてるんだから」 「とにかく」と、エドが言った。「これしか方法はない。いいか、ジャック。決行の日、おまえはサイモンと一緒にいろ。サンディー、君は、台所に隠れてるんだ。俺は強盗のふりをして侵入し、ジャックとサイモンに銃を突きつける。現金をたんまり袋に詰めこんだら、ジャック、おまえはどいてろ。奴に一発くらわせて俺は逃げる。あとはさっき話した通りだ」 「僕と姉貴とで葬式をすませたら、ここを引き払ってニューヨークヘ行けばいいんだね」 「そうだ。警察の奴らが事情を聞きに来たら、適当に犯人像をでっち上げとけ。俺はニューヨークで待っている。あとは俺とサンディーとおまえとで、死ぬまで遊んで暮らせるってわけだ」  サンディーは、うっとりとした目でエドを見上げた。エドは彼女の唇にキスをすると、勝ち誇ったようにほほえんだ。  サイモン・アボットがつい最近、このあたりの自分の農地をあらかた売って大金を手にしたという話は、つとに有名だった。彼は四十の坂を越えるあたりから左目を白内障にやられ、からだに自信をなくした。そのため、働かなくてもいいようにと親から受け継いだ農地をすべて現金に換えたのである。  もともと並みはずれた頑固者で、銀行を毛嫌いしていた彼は、百万ドルという大金を自宅の地下金庫に保管した。むろん、そのことを知っているのは妻のサンディーだけだったが、彼女は今や隣り町のダンスホールで知り合った流れ者のエドに夢中だった。サイモンの金を奪って俺と人生をやり直そう、と言うエドの誘いに彼女が一も二もなく頷《うなず》いたのは、こんな片《かた》田舎《いなか》で片目の頑固亭主の世話をしながら生きることに耐えられなかったからでもある。  決行の日は午後から激しい雨が降り出した。そのため野原の真ん中に建っているサイモンの家は公道からもかすんで見え、犯行には絶好の条件が整った。  サイモンは夕食後、いつものようにパイプをくわえてロッキングチェアーに身を沈め、ジャックと共にTVのクイズ番組を見始めた。一メートルのバストを売り物にしている若い女司会者が、参加者たちにナイル川の川幅についての問題を出した時のことである。突然、居間のドアが乱暴に開けられた。サイモンは驚いてパイプを床に落とし、立ち上がった。エドがライフル銃を向けながら、低い声で言った。 「静かにしろ。二人ともそこへ並んで手をあげるんだ」  台所にいたサンディーは思わず本物の強盗にあった時のように大声をあげそうになったが、そんなことをしたらエドにばかにされるので、あわててこらえた。ジャックは、いよいよ始まったとばかりに小躍りしながら、エドの言う通りにした。  サイモンだけが小刻みに震えながら、片目でエドを凝視している。エドはいらいらして怒鳴った。 「早くしろ。もたもたするな」 「な、なんだ。いったい何が欲しいんだ。言ってみろ」  手をあげてジャックと共に窓辺に立ったサイモンは、義弟を前に、うろたえた姿を見られたくないため、精一杯力をこめて言った。  エドは、ふんと鼻を鳴らした。こんなに醜い中年太りの片目の男が、夜な夜なサンディーのからだを抱いていたと思うと腹が立った。 「金だよ。おっさん。あんたの隠し金庫に詰まってる百万ドルをいただきにあがったんだよ。ついでにあんたの持ち物にしておくにはもったいないという評判の、色っぽい女房もいただいてくぜ」  サイモンの顔が、恐怖と怒りにひきつった。 「か、金はやらん。撃てるものなら撃ってみろ。このろくでもないファック野郎が!」  興奮したエドは、ライフルを床に向けて引き金を引いた。耳をつんざく音がし、床の木片がこなごなになって飛び散った。台所でサンディーが叫び声をあげた。ジャックが突然の混乱に驚いたのか、あたりを猿のように走り回り始めた。  その瞬間、思わぬことがおこった。サイモンがエドに飛びかかっていったのである。  エドは夢中で引き金をもう一度、引いた。サイモンが高速度フィルムのように静かに胸をおさえてくずれおちた。  静寂がもどった。窓をたたく雨の音しか聞こえない。すべてが計画通りに終わった。少なくとも三人にはその時、そう思えた。  サイモン・アボットの胸に受けた弾丸が、奇蹟《きせき》的に心臓をはずれ、、肋骨《ろつこつ》で止まっていたことを知らされた時、サンディーはもう少しで意識を失いそうになった。  サイモンの葬式をすませてしばらくたつまでは、決してニューヨークに一足先に行っているエドと連絡は取り合わない約束になっていた。エドはサイモンの命が助かったことさえ知らないのだ。サンディーは思いあまって何度もエドのいる安ホテルの電話番号を回しかけたが、こわくなってやめた。そんなことをして、万一、怪しまれたらすべては水の泡だ。  警察は、サンディーとジャックに事情を聞きに来た。予想した通り、ジャックは前科者リストまで点検させられた。中にエドの写真もあったが、ジャックにしてはうまい言い方で「ノー」と答えた。サンディーも台所にいたことを理由に、何もわからないと言い通した。手がかりになるようなものは何もなかった。  そんな具合だったから、頭のはげあがった南部|訛《なま》りの警部が「アボットさんの意識がもどり次第、詳しい話を聞くつもりです。この犯罪者リストも念のため見ていただきましょう」と言い出したのも当然だった。  サンディーは警官たちを追い払ったあと、ジャックの手を取って言った。 「ジャック。あたしたちどうしたらいいの。サイモンはあのリストにあったエドの写真を見て『まちがいなくこいつです』って言うに決まってるわ。あんただけが頼りよ。あんたがエドの写真を見て『こいつは違う。義兄《にい》さんは見間違えてる』って言うしかないのよ。ああ、それにしても心配だ。エドがつかまってしまったら、あたし淋《さび》しくて生きていけない」  ジャックは、うろたえている姉を気の毒そうに見つめた。 「エドもばかだったよね。覆面をして来ればよかったんだ。TVで見る強盗はみんなそうしてるよ。でもサイモンの両方の目が見えなかったら、もっとよかったよね。エドは顔を見られずにすんだよ」  そう言うと彼は、大あくびをしてソファーに寝そべり、まもなく眠ってしまった。  サンディーは、しばらくじっとしていた。サイモンの両目が見えなかったら……。たしかにいまジャックはそう言った。  どうしてこんな簡単なことに気づかなかったんだろう。サイモンの両目が見えなければ、いくら前科者リストにエドの写真があってもわからないわけだ。  サイモンの左目はたしかにつぶれている。だが右目はまだ健康だ。ただ、右目ばかり使って暮らしているので人より疲れが激しい。そのため、毎日、疲れ目専用の目薬をさして右目をいたわるのを忘れたことがなかった。  毎日さす目薬……。その中に何かを入れれば……。  サンディーはとりつかれたように地下室へ駆け降りた。まだサイモンの左目が健康だったころ、彼が自分で農業用の肥料を作っていたのを見たことがある。その時は、危険な薬品を使うから近寄るな、と言われた。  黴《かび》のはえた古い農具用木箱のふたを開ける。ビニール袋で厳重に包まれた小瓶が出てきた。  硫酸……サンディーはふるえる手でそれをつまみあげた。  サイモン・アボットの意識が戻ったのはその翌日のことである。サンディーは病院へ行き、かいがいしく世話を焼くふりをして、サイドテーブルの上の埃《ほこり》を払いながら目薬をその上に置いた。 「ねえ、あんた。こんなところにいつもの目薬があったわよ。あんたが持って来たの?」 「俺が持って来れるわけないだろ。病院の誰かが持って来てくれたんだろうよ」 「ずいぶん気をつけてくれる病院で助かるじゃないの」 「あの糞野郎《くそやろう》のおかげで、大事な右目のことも忘れるところだった。おまえ、さしてくれんか」 「今はだめ」と、サンディーはあわてて言った。 「いつも夜、寝る前にさすことになってたでしょ。今晩からになさいな」 「それもそうだ」  サイモンはおとなしくうなずいた。  その晩、珍しくジャックは帰って来なかった。サンディーは不安にかられた。ジャックはこれまで何の頼りにもならない痴呆《ちほう》だったが、いまやエドの身を守ってやるためになくてはならない大切な弟だった。  まんじりともせずに一夜を明かした彼女は、早朝、病院へ急いだ。ジャックはまもなく帰って来るだろう。それよりもサイモンの目がどうなっているか、一刻も早く知りたかった。  サイモンの部屋の扉をノックする。何の返事もない。彼女はおそるおそる扉を開けた。  青いパジャマを着たサイモンが、ゆっくりと目を開けて顔をこちらに向けた。 「おや、おまえか。ずいぶん早いね」 「あんた……」と、サンディーはうがいをする時のような声を出した。 「ちょうどよかった。おまえ、いったん家に戻って俺の目薬を持って来てくれるか」  サイモンは見えないほうの目をごしごしこすりながら、腹立たしげに言った。 「あのうすのろ! ジャックのやつ、おまえの弟だと思って今まで我慢してきたが、もう限界だ。ゆうべ見舞いに来て、俺が目の話をしてやると、急に目薬に興味をもち出したんだよ」 「ジャックがどうかしたの……」  サンディーは消え入るような声で聞いた。 「どうしたもこうしたも」と、サイモンが吐き捨てた。 「目薬を持っていきやがったんだよ。寝る前にためしてみるってんだ。おおかた今ごろは、二つの目玉に一本分の目薬をさしちまってるだろうよ」  十三人目の被害者 〈マーフィー・ストーン教授の日記〉 八月十日  何をどう書いたらいいのか、見当もつかない。ふだんの三倍もスコッチを飲み、たばこを吸い続けたものだから、頭がもうろうとしている。からだ中が水を含んだ海綿体になってしまったように重い。  ルシルは二階の寝室で、看護婦に見守られながら眠っている。鎮静剤のせいで多分、あと十時間くらいは目覚めないだろう。かわいそうに。ショックが激しすぎて、私の顔を見ても初めは反応しなかったくらいだ。  私がいつも「子リスのような」と表現している可愛《かわい》らしい目も、輝きを失ってまばたきの仕方すら忘れたかのように動かなかった。  無理もない。彼女は、いまアメリカ中を騒がせている無差別殺人鬼の十二回目の犯行現場を目撃してしまったのだ。あの恐るべき怪物。情欲のはけ口を見失うと無差別に女たちに襲いかかり、この世のものとは思えない残忍な方法でそのやわらかな肉体をひきちぎる悪魔。私の妻の可愛いルシルは、その現場をはっきりと見てしまったのだ。  私のせいだ。私がゆうべ、大学の研究室へ居残るという連絡さえしなかったら、ルシルはあの薄暗い公園の脇道《わきみち》を車で走り抜けはしなかったろう。  いとしい妻、ルシル。君は私のために熱いコーヒーとカリカリに焼いたべーコンのサンドウィッチを作って、研究室へ持って来ようとしてくれたんだね。夜は外出するなと言いつけておけばよかった。ルシルの身に何かあったら、と思うといてもたってもいられない。  さっきデイビス警部が言っていた。 「ストーン教授。はっきり申し上げます。奥さんは今後、かなりの危険にさらされると言っても言い過ぎではないでしょう。あの切り裂き魔は現場の状況から判断して、ほぼ間違いなく奥さんの乗った乗用車のナンバーを記憶していると思われます。やつは冷血動物のような男ですからね。女性を殺害し続けているばかりじゃない。犯行を目撃したらしき人物もその場で殺害されています。唯一の生き残りであるアーサー・グリズリイという銀行員の証言によると、やつは背の高いやせた男ということしかわからなかったとのこと。私どももグリズリイの証言をもとに捜査網を張っているのですが、今のところどうも……。驚かすようで恐縮ですが」と、警部は私の手を取って重々しく言った。 「事態は緊張をきわめています。ストーン教授、いいですか。私どもは明日から総勢六名の警官をこちらへ送りこみます。うち二名は門と庭に、二名は裏口に、そして残る二名を室内に、各々ボディガードとして配置します。奥さんを狙《ねら》って、やつがこの付近に現われる可能性は充分すぎるほどありますからね。私どもには何とかして奥さんを守る義務があります。その代わり、お宅のプライベートタイムにも警官たちがうろつくことになりますが、ご協力いただいて……」 「むろんです」と、私は言った。 「家の中を軍隊に占拠されたってかまいません。ルシルの命さえ守っていただければ」  ゆうべ切り裂き魔に殺害された女性は、やつの十二人目の獲物だった。まるでイギリスの切り裂きジャックだ。 八月十一日  今度の心理学会で発表する私の論文の中では、やつのことを詳しく分析してやるつもりである。おそらく今までになくすぐれたものになることだろう。やつのことは、これまでどんなに名声のある評論家連中も正確に分析できなかったのだ。やつの分析はもう、私にしかできない。ルシルのためにも論文を完全なものにしてやろう。そう考えると元気が出てきた。 八月十三日  ルシルが少し元気を取り戻してくれた。今朝はいつものように二人でベランダに出て、グレープフルーツジュースとコーヒー、それにポテトオムレツとクロワッサンの朝食をとった。  ルシルはオムレツを平らげ、ジュースも二杯飲んだ。頬《ほお》には赤味がさし、口数も増えてきた。彼女は本当に魅力的だ。そうやって少しずつ病から癒《い》えていく小鳥のように愛らしい彼女を見ていると、私はただひたすら抱きしめ、愛撫《あいぶ》していたいという衝動にかられる。 「本当にこわかったの、ダーリン」と、ルシルは食後、ソファーに横になり、私の膝《ひざ》に頭をもたせながら言った。例の話を彼女からし始めたのは初めてだったので、私は緊張した。 「あの切り裂き魔は、目深《まぶか》に帽子をかぶってマスクをつけてたの。やせてて背が高いってこと以外、全然、顔は見えなかったけど、目の光だけは覚えてる。何ていうか、まるで、そう、夜行性の動物みたいに闇《やみ》の中で目を光らせてたの。ほんとよ。そしてまるであたしに見られてますます快感がつのったっていうふうにして、ナイフをあの可哀相《かわいそう》な女の人のからだに何度も突き刺したわ。肉がちぎれる音がして……ああ、あたし、また胸が悪くなっちゃった」  私はルシルを抱きしめ、安心させるように何度もその背中を軽くたたいてやった。その様子をドアごしに警官がのぞいていった。ルシルを守るのは彼らではなく、この私だ。何しろ私はやつのことを論文に書き、やつの心の動きなら何でもわかるのだから。 八月十七日  どうも妙だ。何が妙なのかわからないが、私には何かが感じられる。  毎日毎日、六名の警官がルシルを見守り、私が大学へ講義に出かけたあともルシルを幽閉された王女よろしく、一歩も外へ出さないよう心がけていてくれるのだが、私は不安が日毎《ひごと》につのってくるのを感じている。何が原因なのかわからない。ただ感じるばかりなのだ。  この家の中のどこかに、かすかにではあるがうごめいているものの匂《にお》いがある。血に飢え、肉に飢えたやつの脂ぎった匂い。死と破壊を愛するやつの不吉な匂い。  どこから匂ってくるのかはわからない。しかし私には微妙に感じとれる。  デイビス警部は毎日やって来ては、ルシルや私に異常がなかったかどうか質問する。ルシルはすっかり元気になり、今では警官に見守られながら鼻歌まじりに料理も作るようになった。  異常などあるわけはない。どこもかしこもいつも通りだ。なのに何故《なぜ》、私だけこんな妙な匂いに悩まされるのだろう。警部には決して言えないことだ。言ったところで理解してはもらえまい。 八月十九日  ゆうべ、ベッドでルシルを抱きよせ、キスをし、いままさに私の性的興奮が極致に達しようかという時に、ドアの外で音がした。あわてて身づくろいし、そっとドアをあけると何くわぬ顔でドアの前を通り過ぎようとしている一人の若い警官と目が合った。 「こんなことは言いたくないが」と私はなるべく穏やかに言った。「過剰警備ということもありそうですね」  警官は尊大に肩をすくめ、口先だけで「申し訳ありませんでした」と言った。いやな野郎だ。  例の匂いは日毎に強まってくる。明日から大学を少し休むことにした。論文の仕上げにかからねばならないし、何よりルシルの身の安全が気にかかるからだ。 八月二十一日  書斎でこのノートを拡げ、物思いにふけっていると、警官が二人、窓の下を通り過ぎた。このごろでは彼らが目につかない時はない。息が詰まりそうだ。ルシルと二人、どこかへ逃げたくなってしまう。いったいいつまでこんな日が続くのだろう。  大学を休んでいるので、論文を書く以外、私にはたっぷりとした時間がある。そのせいか、例の匂いはますます濃くなったように感じられる。家の中のそこかしこに苦い血の味のしそうな匂いが漂い、胸が悪くなるほどだ。早くその正体をつきとめねば。 八月二十三日  今期学会の研究論文を書き上げた。ルシルに序章の部分を読んできかせる。彼女にはこの論文の面白《おもしろ》さはわからないらしい。型通りにほめ言葉を並べただけで、白いエプロンをひらめかせながらキッチンヘ行ってしまった。  キッチンから漂ってくるのは、ルシルの作ったカレーの匂いだ。カレーと例の血の匂いとが混ざって、いとも不快な臭気になっている。神経にさわることこのうえない。  論文で分析した通りだとしたら、やつは今日あたりこの家へ現われるはずだ。それは間違いない。早くルシルを呼び戻さねばな………………………………  八月二十三日の夜、署内は天と地をひっくり返したような騒ぎとなった。デイビス警部は憔悴《しようすい》しきった表情で、部下たちに指令をとばした。その顔は土気《つちけ》色で、いますぐにも鎮静剤の注射を必要とするような感じだった。部下たちが飛び出していくと、彼はどっかりとスプリングのこわれた椅子《いす》に腰をおろし、頭を抱えた。 「まさかな。まさかこんなふうになるとはな。私の責任だ」 「いや、今度のことは神様だってわからなかったでしょう。警部の責任でも他の誰の責任でもないですよ」と、部屋に残った警官の一人が気の毒そうに言った。警部はゆっくりと首を振り、宙の一点をにらみつけた。 「あれだけ万全の警備をしたにも関《かか》わらず、ルシル・ストーンは殺《や》られてしまった。万全と思っていたのは我々だけだったんだよ」 「無理もありません。本当にこればっかりは……」 「日記まで残してやがる。ジキルになりきって書いた日記だよ。ちょうどジキルがハイドに変貌《へんぼう》する寸前のところで終わっていた。奴《やつこ》さんの書いた学会用の新しい研究論文のタイトル、君、知ってるかね」 「いいえ」と、若い警官は静かに言った。 「『妄想《もうそう》と二重人格について』だとさ。さぞかし立派な論文だろうよ」  あちこちの机の上で電話が鳴り出した。そのうちの一つを取り上げた女子職員が、マーフィー・ストーン教授がたったいま、逃走中のところを逮捕されたと、警部に報告した。  彼女を愛した俺と犬 「またなの。もういい加減にしてよ」  リンダは顔を真っ赤にして怒りながら、アトリエ中を歩き回った。スラックスに包まれた形のいい尻《しり》が、否応《いやおう》なくダグラスの目にとびこんでくる。彼は余計に苛立《いらだ》った。 「とぼけるな。おまえのごまかしは、もううんざりだ。俺《おれ》を何だと思ってる。え? 御用済みの下着か何かくらいにしか考えてないんだろう。雌犬めが! おまえの外出好きが何を意味してるのか、俺はちゃんと知ってるんだ。そんなに若い男と寝たいのなら、堂々と俺の目の前で寝てみせろ。こそこそと盛りのついた猫みたいに、忍び足で家を出たりするな」 「あなたは病気よ。妄想《もうそう》にとりつかれてるんだわ。あたしがいつ若い男と……」 「いつもだ。四六時中、おまえのからだは若い男たちの汗に光った肉体を求めてうずいてるんだ」 「やめて! けがらわしい」 「なぜだ。なぜなんだ。俺が盛りのすぎた五十歳の老いぼれだからか。売れない彫刻家だからか。正直に言ってみろ。あばずれめ。言っとくが、いつまでもおまえのそのきれいな顔とからだに、男が振り向くと思っていたら大間違いだぞ。あと五年もたってみろ。秒読みが始まるんだ」 「もうたくさん!」と、リンダは叫び、獰猛《どうもう》な顔つきで夫をにらみ返した。 「あたし、出て行くわ。こんな結婚生活、ブタにでも食わせてやりたいわよ。ええ、そうよ。あなたは老いぼれよ。売れない彫刻家よ。何の取り柄もないわ。ただ、ありもしないあたしの浮気《うわき》を想像して神経をすり減らしてるだけの、ばかなおじいさんだわよ。もうおしまいね、ダグラス。幸福だと思える結婚じゃなくて、残念だったわ」  彼女は吐き捨てるように言ってから唇を歪《ゆが》め、そっけなく彼に背を向けて出口のほうへ歩き出した。  もうおしまいだ、と宣言した後に、ただのひとつも感謝の言葉がなかった。夫に最後のキスをしようとする気配もなかった。そればかりか、その後ろ姿は自信にあふれ、いまいましいほど優雅だった。 「待て!」と、ダグラスは叫んだ。 「本気で出て行ってみろ。ぶっ殺してやる」 「おやおや」と、彼女は立ち止まり、肩をすくめてみせた。 「いくら売れない彫刻家だからといって、そんな品のないせりふを吐くとはね。あきれたことだわ。ねえ、レイン」  リンダのかわいがっていた雄のラブラドール犬は、思いもよらぬ場面で名前を呼ばれたため、戸惑ったように尾を振って彼女のそばに歩み寄った。ピンク色のやわらかそうな舌が、リンダの手を控え目に舐《な》め始める。リンダは舐められていないほうの手で、犬の頭をなでながらやさしい声で話しかけた。 「いい子ね、レイン。あたしと一緒に行くのよ。この人とはもう終わってしまったの。あたし、耐えられないの。わかってくれるわね」  レインは、黒く濡《ぬ》れた瞳《ひとみ》をリンダに向け、最大の愛情と敬意をこめて、ひと声大きく吠《ほ》えた。 「犬にまで媚《こ》びるとは、今世紀始まって以来の淫売《いんばい》だ! いい加減、その、手を舐める癖をやめさせたらどうだ!」 「やめないわよ!」と、リンダは憎しみのこもった口調で怒鳴った。 「レインがいてくれなかったら、あたしはとてもここまで我慢できなかったわ。被害妄想狂とのばかげた結婚生活で、レインだけがあたしの慰めだったんだから」  リンダは見せつけるようにして、大袈裟《おおげさ》に犬のからだをなで回した。 「レイン。行きましょ。こんなところにいたって、何の得にもならないわ」  突然、ダグラスの中で、説明不可能な気違いじみた激情が爆発した。彼は、手元にあった彫像用の麻ひもをわしづかみにすると、妻を目がけて突進した。  レインが驚いて退いた。リンダは、目を丸くしてダグラスを凝視している。彼は、高速度フィルムのように、ゆっくりと妻に両手を伸ばした。  麻ひもが彼女の白い喉《のど》に巻かれた。彼は息を止め、手に力を入れた。  レインが激しく吠えたてている。彼の手はしびれ、額から玉のようなあぶら汗がしたたり落ちた。  どのくらいの時間がたったのだろうか。やがて、もがいていた妻の手が喉元から離れ、だらりと下に垂れ下がった。彼女はおとなしくなった。もう何の反応も示さない。ダグラスは手を離し、肩で息をしながら妻を見た。 「リンダ……」と、彼は小さな声で呼びかけてみた。そしてそのからだを大きく揺すった。栗《くり》色のやわらかな髪の毛が波打って、彼の顔にあたった。  不意に、ダグラスの目に大粒の涙があふれた。彼は、まだ温かい妻のからだを抱きしめ、子供のように声をあげて泣いた。 「初めっから」と、彼は泣きながら言った。 「そうやって素直に俺の腕の中にいてくれればよかったんだ」  リンダがいなくなってから一か月が過ぎようとする或《あ》る晩のこと。突然、リンダの弟、フレッドがダグラスを訪ねて来た。どこかで食後のマティニでも飲みすぎたらしく、かなり酔っ払っている。 「ダグラスさん」と、フレッドは芝居っ気たっぷりに手を広げて言った。 「一杯、やりませんか。こんな陰気な家にひっこんで、粘土をこねてばかりいちゃ、病気になりますよ。そういえば、あなた、ひどく顔色が悪い。それにやせたようだ。困ったもんですねえ。芸術家ってのは、世俗の楽しみを知ろうとしないんだから」  ダグラスは、この騒々しい男が早く帰ってくれればいいと祈りながら、黙ってコニャックの壜《びん》をさし出した。 「これは、これは。ありがたい。ちょうどこれが飲みたいと思ってたところだ。早速いただくことにしましょう。そうだ。姉はどこです。姉も呼んで来て、ひとつ今夜は三人で飲み明かすとしませんか」 「リンダは外出している」 「外出? こんな時間に亭主を一人置いて、いったいどこへ行ったんです」 「ちょっと用足しにね」 「またまた、ダグラスさん」と、フレッドは冷やかすように言った。 「僕は弟なんですよ。しかも実の。僕にまでやきもちやいて、姉を遠ざけておくことはないでしょう。どうせ、家の中にいるってことはわかってるんです。よし、僕がひっぱり出してくるとしよう。姉も姉ですよ。いつまでたっても、あなたの言うなりになってるんだから」  ダグラスが唖然《あぜん》としている間に、フレッドはコニャックの入ったグラスを片手にしたまま、居間を出て行った。  酔っ払いは遠慮というものを知らなかった。廊下を口笛吹きながら、大股《おおまた》に歩いている。  アトリエのドアが開く音がした。口笛が止んで、家中が静かになった。酔っ払いは、アトリエに置いてある数々の彫像を鑑賞し始めたらしかった。酔っていても芸術品の前では、行儀がよくなるものなのだろうか。  だが、それにしても長すぎる芸術鑑賞だった。いつまでたっても物音ひとつ聞こえてこない。  突然、何かが落ちて割れる音が響いた。ダグラスは反射的に立ち上がり、アトリエに向かった。  明るく電気がともったアトリエの真ん中で、フレッドが割れたグラスのかけらに囲まれながら、じっと立っていた。その目は一点に注がれている。  大きな白い彫像。交差させた二本の腕の上にあごを乗せ、うつぶせに寝そべっている女の裸体を形どった彫像。その手元のところに、レインが前足を突き出して、寄りそうように坐《すわ》っている。  ダグラスにとってそれは、いつもと変わらない光景だった。レインはいつも、その彫像のそばを離れようとしないのだ。 「どうしたんだね。フレッド君」  ダグラスは不安げにそう言ってフレッドを見、そして次にもう一度、彫像を見た。彼の背中に冷たいものが走った。  レインがゆっくりと彫像の手を舐めている。ゆっくりと正確に、しかもやさしく。どこかで見たような、なつかしいやり方……。  彫像の手は、何度も何度も舐められたらしく、泥粘土が溶けかかっていた。そして、その中に、いままさに本物の�手�が姿を現わそうとしていたのだ。  ダグラスは思い出した。彫像製作の基本である麻なわ巻きを、リンダの手にだけ施すのを忘れていたことを。  突然、ダグラスの笑い声がアトリエ中に響きわたった。彼は笑って笑って、笑い続けた。あまり笑いすぎて涙を流しながら彼が言った言葉を、フレッドは残念ながら聞いていなかった。すでに失神していたからである。 「聞けよ、フレッド。俺とレインは、両方ともリンダを深く愛していたってわけさ。見ればわかるだろ。どっちも負けないくらいだったんだ」  幸せのサウンド・オブ・サイレンス  それは、ごく簡単にけりがつきそうな殺人事件だった。  殺人課のヤング刑事は、被害者の別荘を出ると、手帖を満足気に背広の内ポケットに収めた。黄色いノウゼンハレンの花が、垣根一面に生い茂っている。黄昏《たそがれ》どきの風が涼しかった。暑かった一日の終わりのひととき。これが殺人事件の現場でなければ、誰でもデッキチェアを持ち出して缶ビールでも飲もうとするに違いなかった。  彼はたばこをくわえると、ジッポーで火をつけた。あせることはなかった。だいたいホシの見当はついている。早ければ今夜中、遅くても明日には、あの美人のバーバラ・フレーザーを殺した犯人をあげることができそうだった。もしかしたら、犯人自身もそれを承知しているかもしれない。  バーバラの死体発見者は、彼女の妹のアニーである。アニーは昨日、姉に電話した時、別荘に来ないかと誘われた。姉妹は仲がよかった。すぐにOKの返事をしたものの、妹にはその日、カナダから来た新しいバイヤーの接待で、ボスと夕食を共にしなければならない予定があった。 「遅くなっても必ず行くわ」と、アニーは言った。そして、事実、遅くなった。ドアを叩《たた》いても返事がなかった。電気はついている。仕方なく管理事務所まで行ってマスターキイを借り、中へ入った。姉は喉《のど》をかきむしってキッチンの床に倒れていた。  バーバラの死因は、急性農薬中毒死。農薬は、野菜ジュースの中に混入されていた。  外傷はなく、何者かが室内に侵入した形跡もない。アニーによると、バーバラは美容のため、毎晩、夕食前に冷えた特製野菜ジュースをグラスに一杯、飲む習慣だった。  この野菜ジュースは、バーバラが通っている美容サロンが考案したぜいたくな飲み物で、材料とするハチミツやニンジンなど、そのすべてが各国で精選された高価なものだった。バーバラは、その作り方を特別にフレーザー家の女中、ウィルマにだけ教え、毎夕食前に作らせていた。  特に今回のように、バーバラが旅行したり、別荘に来たりするような時は、出発まぎわに滞在日数分の新鮮なジュースを作ってポットに入れ、持参するのが常だった、という。  となると、犯人はバーバラが毎夕食前にこのジュースを飲む習慣のあることを知っている人物で、しかもポットに農薬を混入できる立場にある人間に絞られてくる。  つまり彼女の近親者だ。彼らのうち、彼女を殺害する動機をもち、同時に昨日、バーバラが一人で別荘に行くのを知っていた者……。あとはフレーザー家の人間をくまなく調べれば解決間違いなしだった。  バーバラの夫、アレックス・フレーザーが出張先のロンドンから署にかけつけて来るまで、まだ時間がある。鰯《いわし》の酢漬《すづ》けでも、つっつきながら、冷えたビールを飲みに行く余裕くらいありそうだった。ヤング刑事は、軽い足取りで自分の車に戻った。  署からフレーザー家へむかう車の中で、アレックス・フレーザーは終始無言だった。無理もない。妻が毒殺されたうえ、さっき署で私生活に関する不躾《ぶしつけ》な質問を受けたばかりなのだ。  被害者の家族がプライバシーのすべてを警察に明かさねばならなくなるのは、殺人事件につきものの悲劇である。恨まれるのはいつも刑事だった。 『それにしても』と、ヤング刑事は恨まれついでに隣りに坐《すわ》っているアレックスをしげしげと観察しながら思った。 『よくよくこの男は妻に恵まれないとみえる。先妻も車の事故で亡くしてるとはね。呪《のろ》われた妻の座……ってとこか』 「バーバラは、人から恨まれる女ではなかった」と、アレックス・フレーザーは署内の死体安置室で妻と悲しみの対面をした後、弱々しげに言った。バーバラが無邪気で人の好い性格であったらしいことは、かつてのバーバラの友人たちへの聞き込み捜査でも一致した結果が出ている。  皆、口をそろえて「とびきりの美人だった」と言い、こう付け足してきた。 「こんなこと言っちゃ何ですがね、バーバラは知的な女じゃなかったんで好かれてたんですよ。要するに白痴美の善女ってとこです。憎まれて殺されるタイプではなかったなあ」  フレーザー家は代々の資産家だった。アレックスも、今回事件のあった別荘の他に、人に貸している大きな別荘を一軒もち、屋敷と土地、それに幾つかの不動産を加えれば、軽く一千万ドルの資産がある。その分、金目当てに群がってくる女も多かった。先妻を亡くしてからというもの、その手の女にはかなり悩まされたらしい。  バーバラとは人の紹介で知り合った。十五歳になる一人娘のパメラのためにも、後妻が必要と考えたアレックスは、結婚を決意した。結婚後は、彼の身辺はクリーンだったという。  その一人娘、パメラには早急に話を聞かねば、とヤング刑事は考えていた。継母が殺されたというのに、いつまでも一人で部屋に閉じこもっているらしいが、それはどう考えても自然ではない。若い娘らしくない反応の仕方だ。 (やはり女中のウィルマは後まわしだ)と彼は決心した。  フレーザー家の広大な屋敷に着くと、アレックスはすぐに刑事を居間に通して、ぴったり扉を閉ざした。家中が喪に服しているようで、物音ひとつ聞こえない。  ヤング刑事は興味深げに部屋を歩きまわり、暖炉の上に写真立てを見つけて手に取ってみた。バーバラとアレックスが一人の少女を間にはさんで、仲よくおさまっている。あどけない顔をした、ごく普通の少女だった。 「この方がパメラさんですね」 「そうです」と、アレックスは額に手を押し当てながら声をつまらせた。 「かわいそうに。二度も母親を亡くすなんて……。まだたったの十五歳なんですよ」  娘を思う父親の興奮状態が落ち着くのを待って、ヤング刑事はもの静かに質問を開始した。 「つかぬことを伺います。お嬢さんは何故、あなたがお帰りになったにも拘《かかわ》らず、お部屋に閉じこもったままなのでしょう。どこか加減でも悪いのですか」 「ショックが強すぎたのです。ただでさえ身体が弱く、感受性の強い子ですから」 「それならよくわかります。十五といったら、一番感じやすい年頃《としごろ》ですからね。しかし」と、刑事は穏やかな調子で核心に切り込んでいった。 「今回、パメラさんはどうしてバーバラさんと一緒に別荘へ行かなかったんでしょうね。お二人の仲はうまくいっていたと伺ったのですが」 「パメラとバーバラは、親子というよりいい友人同士でした。しかしパメラは、大の外出嫌いです。別荘はおろか、友人の家にすら滅多に行きません。バーバラはそれをよく知っていたので、私のいない時に別荘へ行く場合、いつもアニーと誘い合わせて行ってました。何かパメラがおかしいのですか」 「いえ、別に」と、刑事はアレックスが娘のこととなると敏感に反応するので、内心、閉口しながらへたな作り笑いをしてみせた。こうなったらパメラ本人に話を聞いたほうが早い。 「パメラさんを呼んで頂けますか。職務上、お嬢さんにも話を聞かねばなりません」 「あの子は何も関係ないでしょう。そっとしといてやって下さい」 「お気持はわかりますが、フレーザーさん、昨日、バーバラさんが別荘へ出かける直前に家にいらしたのは女中のウィルマさんとパメラさんの二人だけだったのです。それにアニーさんの証言によると、アニーさんがバーバラさんに電話をかけて別荘行きを誘われた時、バーバラさんは『パメラはいま昼寝をしているの。起こすとかわいそうだから、置手紙でもしていくわ』と言ったそうです。そのあたりのお話を……」  アレックスの顔にみるみる血がのぼった。 「君は何を言いたいのだ。パメラが事前にバーバラの別荘行きを知って、ポットに毒を入れたというのか。人の娘を侮辱するのもいい加減にしたまえ。パメラはバーバラの言った通り、昼寝をしていたのだ。事前に外出がわかるわけがないだろう」 「そうは言いきれません」と、ヤング刑事は幾分、胸を張って言った。 「お宅の電話は各室からボタン一つで内容を聞けるようになっている。バーバラさんの部屋にかかってきたアニーさんからの電話に気づいたパメラさんが、自室で受話器を取り、内容を聞くことは可能です」 「そうかね」と、アレックスはこれ以上ないというほど憎々しげに刑事をにらみつけた。 「残念ながら君の非礼きわまる推理は当たっていないようだ。パメラは耳が聞こえないのだから」 「は?」と、刑事は目を見開いた。 「耳が聞こえないと言ったのだ。四年前、妻を失った時の車の事故で助手席にいたパメラも重傷を負い、以来、完全に聴力を失った。もう帰って下さい。もう私は君のような人間と話をしたくない」  隣室でドアに耳を押し当てながら、話の一部始終を聞いていたパメラ・フレーザー(=あたし)はにんまりと笑った。  予想通りだった。自分の代わりに誰かがバーバラ殺しの嫌疑をかけられるのだろうが、そんなことにはちっとも心が痛まなかった。あたしは、自分とパパだけが幸せであればそれでよかったのだ。  もちろん、この一年間だって不幸だったというわけではない。バーバラと結婚したパパが変わったわけではなく、かといってバーバラがあたしにとりたてて冷たく当たったわけでもなかった。  ただ邪魔だっただけだ。そう、あの女、バーバラが。パパと二人だけの静かな生活が、あの女によってかき乱されたのだ。  日曜日の午後、テラスに出て銀のプレートにのった上等のティーカップでパパとお茶を飲んでいても、いつもバーバラがそばにいた。胸を大きく開けたドレスを着て、これ見よがしにパパに寄り添う姿は、フレーザー家にふさわしくなかった。それに彼女があたしに無邪気に献身すればするほど、パパは彼女に感謝せざるを得なくなる。パパがあの女に「ありがとう」を言うたびに、あたしは内心むかっ腹を立てていた。  あたしの耳が突然治ったのは、一か月前のことである。自室の大きな花瓶を割ってしまった時、ショックで音が甦《よみがえ》ったのだ。  一か月間、耳が聞こえないふりをするのは大変だったが、それも邪魔っけなバーバラを消すためと思えばどうということはなかった。チャンスを狙《ねら》っていたのだ。耳が聞こえないことによって、完璧《かんぺき》に殺人の嫌疑から逃れられることになるチャンスを!  足音がしてあたしのいる部屋の扉がノックされた。パパだ。パパはあたしの耳が聞こえないのを知っているのに、いつもそうする。  パパが入って来た。すごく怒っている。刑事に対する怒りをあたしにぶつけようとしている。あたしはにっこりと笑ってみせた。パパがあたしを勢いよく抱きしめた。あたしは言った。 「ね、パパ。私もう耳が聞こえるのよ」  パパの身体がこわばった。信じられないといった様子だった。あたしはやさしく言い切った。 「だから……ね。もう邪魔者はいなくなったの。パパ、内緒よ」  女の約束 〈メアリ・ジャクソンからトレーシー・ウィラーヘの手紙〉 「尊敬するトレーシー・ウィラー様。私の悩みにお答え下さい。どうしたらいいのかわからず、生きている心地すらいたしません。  私は三十三歳。結婚五年になる夫がおります。結婚した当初、夫は自動車工場に勤めるたくましい男でしたが、一年程前から悪い仲間に誘われて始めたコカインがもとで、今では完全に中毒状態です。そのため、仕事もやめてしまいました。仕方なく私はウェイトレスの仕事をしていますが、私がいくら稼いでも夫に持ち出されてしまうので、生活はひどいものです。  トレーシー様。あなたは多分「すぐ離婚しなさい」とおっしゃるでしょう。けれど私は、離婚したくともできないのです。と申しますのも、夫は何をどう思いこんでいるのか、私のからだを手離そうとしないのです。ドラッグと、私を相手のメイキング・ラブがある限り、夫はおとなしいのですが、ひとたび私が断わると、人が変わったように凶暴になります。まして、「別れましょう」と言おうものなら殺されかねません。  まったくばかげたことですが、一度、夫は私に離婚をすすめてきた知人の一人をめちゃくちゃに殴りつけて、虫の息にさせてしまったこともありました。  尊敬するトレーシー様。いったいこんな私はどうしたらいいのでしょう。夫は、ドラッグと精液だけで生きているけだものです。いえ、けだもの以下です。  こんな恥ずかしい相談事ができるのは、あなたしかいません。相談料の十ドルを同封しました。どうか一日も早く御回答をいただけるよう、切にお願い致します。あなたからの回答が我が家のメイルボックスに届く日を、私は身を縮ませながら待ち侘《わ》びています。 メアリ・ジャクソン」 〈トレーシー・ウィラーからメアリ・ジャクソンヘの回答〉 「お手紙拝見しました。お気の毒な結婚生活であることは、充分にわかりました。  結論から先に申しますと、今すぐに市の婦人保護団体へいらっしゃることをおすすめします。連絡先は別紙にある通りですので、できたら電話をしてから行かれるほうがいいでしょう。  この保護団体は、あなたのように暴力夫、麻薬中毒夫に悩む妻たちのための施設です。市が責任をもってあなたを守ってくれます。たとえ玄関口にご主人が暴れこんだところで、決して心配する必要はありません。  それに半年間、衣食住の面倒を見てくれますので、その間に転地及び職探しをすることもできます。  ともかくあなたは、勇気をもってご主人から逃げることが大切です。輝かしい人生を無駄に生きることはありません。 世界の女性の味方 トレーシー・ウィラー」  トレーシー・ウィラーは、いまや知らぬ者はない新手の婦人問題相談家として人気があった。電話でも話しにくいような内容の相談事を手紙でオフィスヘ郵送させ、同じく手紙で回答を送る方式をとっていたが、この一見まわりくどいようなやり方は、告白手記を書きたくてうずうずしている女たちに好感をもって迎えられていた。  トレーシーは、よくインタビューに答えてこう言った。 「この方法は、私の夫マイケルが考案したものです。夫は精神分析医ですので、苦しむ人たちにはまず、紙の上に自分の苦しみを書かせると非常にいい結果が生まれることを知っていたのです」  トレーシーの回答はこれまでの身上相談の回答と違って、観念的な言いまわしの一切ない、非常に具体的なものだった。それが方向を見失った悩める人々を一層、喜ばせた。  果たして相談者の数は評判が評判をよんでウナギ登り。トレーシーは、オフィスに二人の助手をおいて、連日回答書きに多忙な毎日であった。一回の回答につき十ドル。一日に二十件はこなすので、月に六千ドル近くの収入になった。  実際、多くの悩める女たちと異なり、トレーシーは恵まれた女だった。  夫のマイケル・ウィラーとは、結婚して十年になるが、夫婦仲は穏やかなものだった。  夫の経営する精神分析のオフィスも大繁盛。夫婦の収入を合わせると、死ぬまで二人でぜいたくのし放題ができることは約束されたようなものだった。  幸福を絵に描いたような女……それが婦人問題相談家、トレーシー・ウィラーだった。  ある日、彼女のオフィスに一人の男が訪ねて来た。男は、薬が切れた中毒患者特有の凶暴な目をしていた。次の瞬間、トレーシー・ウィラーは、はからずも彼女自身の意外な運命に気づかされることになった。  が、気づいた時はすでに遅かった。彼女は、男がゆっくりと構えた短銃の標的になっていた。逃げる間もなかった。銃が火を吹いた。何がおこったのか何もわからぬまま、トレーシー・ウィラーは自分の胸がばらばらの破片になってあたりに飛び散ったのを感じた。  幸福は、コーヒー豆ほどのちっぽけな弾丸によって一挙に失われたのだった。  この奇妙な殺人事件をマスコミは好奇心たっぷりに取り上げた。犯人はトム・ジャクソンという重症のコカイン中毒者。トレーシー・ウィラーのところへ悩み事相談の手紙を出した女の夫だった、という点が人々の関心をあおった。「人生相談は防弾ガラスの中で」「�一寸先《いつすんさき》は闇《やみ》�であることを知らなかった幸福な人生相談家」という皮肉った見出しが、雑誌の目次を飾った。  トム・ジャクソンは逮捕後、すぐ精神病院に収容された。妻のメアリは弁護士をたてて離婚を成立させたものの、事件の責任を感じたのか、人にも会わず、家に閉じこもったままだった。  そのメアリがトムの収容されている病院へ姿を現わしたのは、事件後二か月たってからのことである。家に閉じこもりきりだったにしては、顔色はジェリービーンズのようにつややかだった。  医師は面会を求めるメアリをトムの病室へ案内した。メアリはその若い医師に礼を言うと、一人で病室の中に入った。  枯れ木のようにやせ細ったトムが、ぼんやりと椅子《いす》に坐《すわ》ったまま彼女を見た。青いブラインドからもれる日の光が、窓の鉄格子と交叉《こうさ》して床に青いギンガムチェックの模様を描き出している。ベッドと椅子の他には何もない、水槽のような部屋だった。メアリはちょっと首を傾けて、唇の端に笑みを浮かべた。トムは黙っていた。 「ハロー」  メアリは軽い口調で言った。トムがほんの少し、肩をすくめてそれに答えた。 「きょうはあなたにお礼を言おうと思って来たの。少し話を聞いてね」  そう言いながら、彼女はベッドの端に腰を下ろした。スプリングがギシギシと音をたてた。 「あたしはね、昔から貧乏だったわ。貧乏だったためにカレッジにも行けなかった。シルクのドレスだって着たことないわ。でもね、そのことをつらいと思ったことなんかないの。貧乏なんて慣れちゃえばそんなものよ。あんたにもわかるでしょ。慣れさえすれば、分不相応なことは望まなくなるわ。でも」と、メアリはベッドの上で足を組みかえた。再びスプリングが鳴った。 「あたしには昔から一つだけ許せないことがあった。たった一つだけ。それはね、自分と同じ貧乏人だった女が、ひょんなことから幸福になるパスポートを手に入れてシンデレラガールになること」  風が吹いてブラインドが揺れ、床のギンガムチェック模様もさざ波のように揺れた。 「トレーシーは、ハイスクール時代、あたしの友達だったの。やっぱり貧しい家の娘でね、似た者同士で仲がよかったわ。それが彼女だけあんなに金持で有名になったのは、もとはと言えば才能豊かで金のあるクラスメイトのマイケルと結婚できたからよ。マイケルは本当は、当時、私に夢中だったの。でも私はトレーシーなんかよりずっと美人でモテていたから、マイケルのように牛乳ビンの底みたいな眼鏡をかけた神経質な男には興味なかったわ。男は他にもたくさんいたもの。それでマイケルは、仕方なく強引に迫ってきたトレーシーと結婚したってわけ」 「以来、あたしとトレーシーの仲は疎遠になってしまった。彼女、あたしという友達がいたことすら忘れてたんでしょうね。メアリなんて名前はどこにでもある名前だし。あたしだってことに気づかず、ちゃんと回答をくれたわ。あたしね、トム」と、メアリは立ち上がってトムの側まで行き、椅子の前に跪《ひざまず》いた。 「昔、トレーシーと冗談半分で約束してたの。『私たちずっと一緒よ。もしどちらかが抜けがけして金持と結婚なんかして友情を裏切ったら、もう一方は復讐《ふくしゆう》に立ち上がるの』ってね」  静かに立ち上がったメアリは、トムに目を細めて笑いかけた。 「おばかさん。まだわからないの。トレーシーからあんな回答が来たのをあんたが知ったら、頭のいかれたあんたは必ずあの女を殺しに行くってこと、あたし知ってたのよ」  トムは、目をぱちぱちさせてメアリを見上げた。 「ありがとう、トム。おかげでトレーシーとの約束を果たせたわ」  その頬《ほお》にやさしく手のひらを当ててから、メアリは満足げにドアに向かって歩き出した。  病院の前でメアリは、彼女を待っていた一台の真新しいビュイック・リビエラに乗りこんだ。 「メアリ」と、運転席の男が彼女を待ちかねたように抱きしめ、キスの雨を降らせた。 「本当にうまくいったね。あの目立ちたがり屋の多幸症女が消えてくれてまるで夢みたいだ」 「私だってよ」と、メアリがささやいた。  牛乳ビンの底のような眼鏡の奥で、男が目を細めた。  不運な忘れ物 「どうしよう」  スーザン・ブルムはアパートへ帰ってから青くなった。  もう一度、持ち帰った手荷物を調べる。五年前から使っている流行遅れのショルダーバッグ。家で食べようと思って買った、ドーナッツが入っている紙袋。そして、もう一つの紙袋には、さっきまで一緒に飲んでいた従姉妹《いとこ》から返してもらったばかりの探偵小説が数冊。  つまり紙袋が二つに、ショルダーバッグが一つ……だ。どこをどう捜しても、書類の入ったケースはない。 �さっき店を出る時はたしかに持ってたわ�  そう、それは確かだった。彼女は二つ違いの従姉妹の目の前で、あの書類ケースを自慢したのを覚えている。 「見て。このケース、高かったのよ。もちろん本革製。色もいいでしょ」  従姉妹は笑いながら「あんたにはもったいないくらいね」と言った。あの時は、しっかり手に持っていたのだ。  店を出てからタクシーを二台、拾った。従姉妹の住んでいる所とスーザンのアパートは逆方向だったから。  そしてそのまままっすぐアパートに帰った……ということは、ケースはタクシーの中に置き忘れてきたのだ。間違いない。  スーザンは頭を抱えた。タクシー会社の名どころか、何色の車だったかも覚えていない。ほろ酔い加減だったのと、手荷物が多かったことで降りる時、ろくにシートを見もしなかった。お釣りだってちゃんと受け取ったかどうか怪しいものだ。 �あんな大事な書類を……ああ、もうこの世の終りだわ�  泣いてもどうしようもないことなのに、彼女は涙を流し、動物園の熊のように部屋の中をぐるぐる歩き回った。  書類ケースの中には決して他人に見られてはならない書類が入っていたのだ。会社の極秘書類などではない。見られたら彼女の会社でのここ二年間にわたる不正が暴露されてしまう書類が、ごっそり入っていたのである。  スーザンは小さな金融会社の入金係をしている。金融会社といえば聞こえはいいが、早い話が金貸し業。アップフィールドという名の禿《は》げた赤豚のような男が社長で、社長以下六人の社員しかいない。うち三人は出資係で、残る三人が入金係。貸した金に利子をつけて返済してもらうための窓口が入金係の仕事であり、スーザンはそのチーフ役であった。  吹けば飛ぶような小さな会社ではあったが、ニューヨークのど真ん中に店を構えているせいか、小口の客は後を絶たず、けっこう繁盛していた。給料もまあまあ。残業が多いのが玉にキズだったが、ボーイフレンドの一人もいないスーザンにとっては、退屈な夜をすごすより残業をして残業給金を支払ってもらうほうがましだった。  彼女はもっともっと金が欲しかった。金をためて従姉妹と一緒に世界一周旅行をするのが夢だったのだ。そのためには旅費だけでなく、カジノヘ行く時に着ていくイブニングドレスやブラックミンクのロングコート、ダイヤの指輪も必要だった。金はいくらあっても足りなかったのである。  そこでスーザンは二年前に名案を思いついた。入金係は毎日、多額の現金を取り扱う。客から返済された金はチーフである彼女がまとめて書類上の手続きをし、最後にアップフィールドのサインをもらって金庫に現金と共に保管するのだ。その際、ニセの領収書を作り、返済金の一部を自分のフトコロに収めてしまうのは容易なことだった。アップフィールドのサインだけは難関だったが、それも油紙で本物のサインを写しとるという方法で解決がついた。  アップフィールドはいちいち何通の書類にサインしたか覚えていない。それに、くすねた金の穴埋めは他の客からの入金を次から次へと回して形を整えておけば辻褄《つじつま》が合う。この方法でスーザンは二年の間に約二万ドルの金を着服してきた。  気をつけなくてはならないのは、ニセの書類を作ったあと、ホンモノを家に持ち帰って穴埋めのための計算をしておくことだ。あちこちの客からくすねているので、その額すべてを頭に記憶させることは不可能である。  そのための計算書類、そしてホンモノの書類が一式入った書類ケースをそっくりそのままタクシーに置いてきてしまったわけだ。拾い主はすぐ、アップフィールドに連絡するだろう。そして不正がばれるのは時間の問題だろう。  もう世界旅行やダイヤの指輪どころじゃない。私は犯罪人だ。スーザンは立ったまま号泣した。  三日間が何事もなく過ぎた。スーザンは何くわぬ顔で出社したが、内心、死ぬ思いだった。死ぬことも考えたが、こわくてできなかった。奇跡がおこってあのケースが川にでも捨てられていてくれればいい……そう願うしかなかった。  三日目の夜、真夜中にスーザンの部屋のドアをノックする者がいた。彼女は震え上がった。もう警察が逮捕状を持ってやって来たのだろうと思ったのだ。  しかし、ドアの外でにっこり微笑《ほほえ》んだのは警察の男ではなく、五十過ぎの丸々と太った中年女だった。 「スーザン・ブルムさん……ですね」 「はい。あの、どなたでしょう」 「名乗るほどの者でもありませんよ。書類ケースをお届けにあがっただけですから」  スーザンは信じられないという顔で女を見た。奇跡がおこったのだ。この、人のよさそうなおばさんにケースは拾われていたのだ。彼女は女を部屋の中へ招き入れ、有頂天《うちようてん》になってとっておきの高級スコッチをふるまった。  女は目を丸くしてスーザンの喜びようを見ていたが、すぐ帰るつもりなのか手袋もコートも脱がなかった。 「本当に何てお礼をしたらいいのか。大事な書類だったんです。もう心配で心配で、夜も眠れませんでしたわ」 「そうでしょうね」と、女は愛想よく笑いながら言った。 「アップフィールド社の、スーザン・ブルムさんということで住所を調べたんですよ。私があなたのすぐあとにタクシーに乗ったのも、何かのご縁ね」 「まあ、それじゃ、あなたがあのタクシーに……」  スーザンは感激して言葉が続かなかった。会社に連絡する前に持ち主であるスーザンのところへ直接届けてくれるなんて、何て親切なおばさんだろう。貧しげな服装をしているが、とても庶民的で心のやさしい人なのだ。きっと書類の内容など、何のことかわからなかったに違いない。  スーザンはスコッチを女にすすめ、冷蔵庫からハムとチーズを持って来て気前よくふるまった。女は恐縮しながらもスコッチを飲み、すっかりくつろいだ様子だった。あまり自分のことは話さなかったが、どうやら年金暮らしの孤独な未亡人らしかった。スーザンはすっかりこの女が気に入った。どこか自分と似ているような気がしたからである。 「あなた、犬は飼わないの?」  女が聞いた。スーザンは首を横に振った。 「そう。飼わないほうがいいわ。特に独り暮らしの淋《さび》しさをいやすためにはね」  女はふと厳しい表情になった。 「あれは二年前だったわ。かわいがってた犬がいたの。エアデール・テリヤよ。夫と死に別れてから淋しくてね。犬を相手に暮らしてたの。ところが、その犬、家の前の路上で車に轢《ひ》き殺されちゃったのよ。かわいそうに。内臓がとび出して、即死だった」 「まあ」と、スーザンは気の毒そうに言った。 「淋しかったでしょうに」 「ええ、そりゃもう。あの子を殺した男が憎くてね。あなただったらわかるでしょ。生きがいを失うことがどんなにつらいか」 「わかりますわ」 「そうよね。あなたも生きがいをもつために危ない道を渡ってきたんですものね」  スーザンは返す言葉を失い、女を凝視した。  女は微笑した。 「そんなにこわい顔をしないでいいのよ。あなたがアップフィールドのところで不正をしてお金をくすねてるってことくらい、知ってるんだから。書類ケースを拾ったのは、この私なのよ。中を見ればすぐわかるわ」 「じゃあ、あなた、まさか……」 「大丈夫よ。真相を知ったからってあなたを脅迫したりなんかしないわよ。私がほしいのはお金なんかじゃないんだから。それに」と、女はゆっくりと立ち上がり、スーザンの横に来て坐《すわ》った。 「アップフィールドには決してあなたの不正はバレないわ」 「どうして。いったい何が言いたいの」 「だって」と、女は口紅のついた歯をみせてニッと笑った。 「さっき私が殺してきたんだもの」  あまりのショックにスーザンは椅子《いす》からずり落ちそうになった。この女は気が狂っているのか。それとも殺し屋なのか。 「驚いた? でも別にスーザン、あなたのために殺してあげたんじゃないわよ。私のためなの。私のかわいいワンちゃんを轢き殺したのはあいつだったんだから」  わけがわからなかった。スーザンは目を大きく見開いて冷静になろうと努めた。 「なぜ、そんな話を私にするの。黙ってればわからないのに」 「そりゃそうよ。でも、そういうわけにいかないの。あなたにも協力してほしいことがあるんだもの。あなたの書類ケースを偶然、拾ったことから、私のワンちゃんに対する復讐《ふくしゆう》ができるようになったんだから」 「何なの。その協力って……」  スーザンは少し落ち着きをとりもどした。この女がアップフィールドを殺してくれたのだったら、不正がばれる心配はもうない。目的は脅迫とか金ではなさそうだし、少しくらい協力してやるのも悪くないかもしれない。 「簡単なことなのよ。心からお願いするわ」  そう言いながら、女は嬉《うれ》しそうに持ってきた大きなハンドバッグの中を探った。興味深げにそれを見ていたスーザンの目の前に、いきなりピストルがつきつけられた。 「ね、簡単でしょ。あなたは横領がアップフィールドにばれたため、彼をこのピストルで殺し、自殺したってことになるんだわ」  逃げる間もなく女がものすごい力でスーザンの手を取り、こめかみに当ててピストルを押しつけた。頭の中に爆音が響き、スーザンは静かにソファに崩れ落ちた。  やさしく呪《のろ》って……  ルイズは、決して頭が悪かったわけでも不美人だったわけでもない。  その証拠に、勤務先のニューマン・トラベル商会では社長秘書として活躍していたし、ボスのテッド・ニューマンからは毎週金曜日の夜、マンハッタンにある彼のセカンドルームヘ来ないかと誘われてばかりいた。  テッドは四十代の半ばをとうにすぎていたが、スーツを脱いだあとの下着姿は若々しく、ルイズが時々遊び半分でつき合う若い男たちよりずっと精悍《せいかん》でセクシーだった。初めのうちは火遊びのつもりだったルイズも次第にテッドの魅力のとりこになり、金曜の夜を待ち遠しく思うようにさえなった。  ただ、そうした関係が二年目に入るころになると、ルイズは時折《ときおり》、どうしようもない空しさを感じてテッドの前でも暗い顔をすることが多くなった。 「いったいどうしたんだ。言ってごらん」  テッドは相変わらずやさしかった。彼女はニューヨークのイルミネーションが眼下に見える高層マンションの一室で、リネンのシーツにくるまったままさめざめと泣いた。 「こんなにあなたのことを愛しているのに、私はあなたと一緒に暮らしたり、堂々と連れ立ってパーティーに出席したりできないのね」 「リディアのことかい。おばかさん。僕たちの夫婦関係は冷えきっているんだよ。前にも言ったじゃないか。何度別れ話をもち出したか知れないよ。そのたびに言下に断わられてきた。彼女は派手《はで》好きで、見栄《みえ》っぱりだ。離婚を承知させるには時間がかかる。むろん金もね」  そう言いながらテッドはルイズを抱き寄せた。甘いかすかな体臭がルイズの鼻をくすぐる。 「さあ、もう泣くんじゃない。僕は一生、君のものだよ。あとは時期を待つだけなんだ」  こうした会話は何度繰り返されたか知れない。ルイズはテッドとリディアの離婚を進行させるのに、自分が何の行動もおこせないのが歯痒《はがゆ》くてならなかった。リディアさえその気になってくれれば、何の問題もおこらないというのに……。  そんなある日のこと、テッドは金曜日だというのに仕事でサンフランシスコへ出かけてしまった。例のマンハッタンの彼の部屋の合鍵《あいかぎ》はもっていたが、彼女はひとりで部屋へ行く気はどうしてもおきなかった。  金曜の夜は長く、淋《さび》しくなりそうだった。ルイズは仕事を終えると街に出た。  一人で夕食を食べるのもいやだったので、ハンバーガーショップヘ行き、チーズバーガーとフライドポテトの大盛りを袋に入れてもらった。一人で時間をもて余した時、ルイズはいつもチーズバーガーを買って映画館に入ることにしている。誰にも邪魔されない気晴らし法だった。  ぶらぶら歩いていると一軒の映画館があった。看板に「心臓の弱い方は決して見ないで下さい」と書かれてある。こんな気分の時は恐怖《ホラー・》映画《ムービー》に限る……と、ルイズは思った。恋愛映画など見たくもない。  彼女はチケットを買い、中に入った。夕食の時間のせいかすいている。スクリーンではちょうど金髪の美女が得体のしれない怪物に目をえぐりとられるシーンが映っていた。うしろの客席で女が恐怖の叫び声をあげたが、ルイズは別に何も感じなかった。どうせ作り物の映画だ。遊園地のお化け屋敷で泣き叫ぶ子供じゃあるまいし……。  それよりも、あとから入って来て彼女の隣りに坐《すわ》った女が、異様にムスクの匂《にお》いをぷんぷん漂わせていることのほうが気にかかった。ルイズはムスクの香りは嫌いだった。あまり嗅《か》ぎ続けていると胸が悪くなる。彼女は眉《まゆ》をしかめて、そっと気づかれぬよう隣りを見た。  彼女ほど若くはないがかなりの美人だ。黒いドレスを着て灰色の大型ショールを肩にかけている。ツンと張った鼻と細いあごの線が神秘的で、肌は大理石のように青白い。何の仕事をしている女だろう。女優? モデル? それにしては年をとりすぎているし、着ているものも妙だ。それにこのムスクの強烈な匂い! ルイズは食欲を失って食べかけのハンバーガーを袋に戻した。その時、隣りの女が不意に話しかけてきた。 「ちっとも面白《おもしろ》くない映画ですわね」  ルイズは驚いて相手を見返した。女は優雅に微笑《ほほえ》んだ。 「もっと怖がらせてくれる映画かと思ってましたのに」 「え? ええ、まったく……」  女はルイズの顔をじっと見つめた。射るような視線だった。ルイズは思わず顔をそむけた。気味の悪い女だ。もう出よう。 「あの、あなた……」  バッグを肩にかけて席を立とうとしたルイズを女は静かに、そして有無を言わせぬ力強さで呼びとめた。ムスクの香りが一層、強烈に匂う。ルイズは頭がくらくらして席に腰をおろした。 「あなた、愛する人と結婚できずに悩んでいますね」  女はにっこりと口元をほころばせた。 「よろしかったらご相談にのりますわ。ご心配なく。私、|J《ジエイ》・|J《ジエイ》。予言者ですの。ご存知ないのも無理ありませんわ。こうして街で見かけた人を相手にしてしか商売をしてませんので」  この日を境にルイズの毎日には活気が出てきた。彼女は仕事が終わると一日おきにこっそりJ・Jのオフィス(J・Jは�予言室�と呼んでいたが)へ行き、どうしたらリディアがテッドと別れる気になるか、相談した。  会えば会うほどルイズは、J・Jを信用する気になった。J・Jの�予言�とは、トランプ占いの類《たぐ》いのいい加減なものではなかった。J・Jによると、人のからだと頭脳には目に見えない磁気があり、訓練によって他人の磁気の方向を変えさせることもできるのだという。チベットでJ・Jが修業したという難しい話はルイズには理解できなかったが、多くの人を救ったという具体例は信憑《しんぴよう》性があった。予言料金はかなり高額だったが、かまうことはなかった。ルイズは預金を使いきっても最後までJ・Jについて行こうと決心した。  それから一か月後、不思議なことに早くもJ・Jの効果があらわれ始めた。テッドが一層、激しくルイズを愛し、毎日のように彼女を誘うようになったのである。彼は言った。 「リディアのやつがね、どうも他に男を作ったらしいんだ。これで離婚はあと一歩だよ。待っててくれるね、ルイズ」  ルイズは狂喜し、J・Jに感謝した。J・Jも共によろこんでくれた。 「本当にあなたの場合、効果があらわれるのが早いですね。あなたが私を信頼してくれているからです。信頼されなければ私の磁気の効力も弱まります」  ルイズはもう待ちきれない思いだった。リディアに他に愛する人ができたとなると話は簡単だった。本当にあと一歩、いや半歩なのだ。J・Jはルイズのその気持をよく理解していた。彼女はある晩、おごそかに言った。 「さあ、ルイズ。もう待ちきれませんね。いいでしょう。あなたに最後の予言をします。このピルケースに入った白い粉は、チベットの高名な秘教家が自分のからだから汗と共に抽出した磁気の粉末です。都合のいい時にリディアに飲ませなさい。それで万事、解決するでしょう」  ルイズはピンク色の紙に包まれた小さなピルケースを受け取った。その日の代金は眼の玉が飛び出そうなほど高かった。しかしルイズは満足していた。もうこれで大丈夫。リディアはテッドと別れてくれる……。  三日後、チャンスが訪れた。テッドが仕事関係者たちとゴルフに出かけ、ルイズに暇ができたのである。彼女はテッドの自宅へ行った。  リディアとはこれまで数回、顔を合わせていたが、何度会っても宝石好きのツンツンしたいやな女だった。だがそんなことはもう関係ない。もうすぐこの女もテッドにとって赤の他人になるのだ。  テッドに言いつけられて書類を届けに来たと言うと、リディアは愛想笑いを浮かべて中ヘ入るようすすめた。居間ではさっきまでリディアがマニキュアを塗っていたらしく、部屋中にエナメルの匂いが漂っていた。メキシコ人のメイドにコーヒーをもってこさせると、リディアはさかんにテッドとののろけ話を始めた。 『私に対するつら当てだわ。自分にも男がいるくせに』  ルイズは内心、むっとしたがすぐ自分を戒めた。J・Jに「相手を憎んではいけない」といつも言われていたからである。  リディアがレコードをかけるために立ち上がった。ルイズはおだやかな気持になるよう努力しながら、コーヒーカップの中に白い粉末をおとした。粉末はすぐに溶け、一つの泡も残さなかった。リディアは4チャンネルステレオから流れ出すモーツァルトのピアノ協奏曲に耳を傾けながらルイズに笑いかけ、赤いマニキュアを塗った指をゆっくりとコーヒーカップにのばした。  テッド・ニューマンが、社員たちの全員帰ったオフィスで、ひとり、缶ビール片手に国際電話をかけている。 「ハロー、僕だよ。元気だ。もちろん予定通りだよ。あいつの葬式で泣いてみせるのには努力がいったがね。え? 何だって? 声が遠いよ。ああ、ルイズ? かわいそうだが鉄格子の中だ。精神鑑定に送られるかもしれん。そりゃあそうだよ。警察がしらみつぶしに調べてもJ・Jなる女予言者など、この世にいないんだからね。あれほど簡単に人を信用する女だとは思わなかったよ。思った以上に頭が弱いんだ。それより、今、何してる。早く君に会いたいよ。もう一か月以上も会ってない。明日、そっちに向けて出発するからね。傷心旅行ということにしたさ。君のあのムスクの香りがなつかしい。早く君を抱きしめたい。愛してるよ……」  計画通りの埋葬  計画は実にうまく進行していた。ジョー・マクニコルはかねてから取り決めてあった通り、金曜日の夜にジルのアパートを訪ねた。  ジルは栗《くり》色の髪の毛を長く肩まで垂らし、白いレースのドレスを着て彼を迎えた。化粧が少しきつすぎる気もしたが、ジョーは何も言わなかった。 「ああ、これが憧《あこが》れの結婚届なのね」  ジルは弱々しい笑みを浮かべながら、ジョーが渡した一枚の紙を抱きしめた。 「さあ、ジョー。こっちに来て」  アパートの小さな居間は、今夜の秘密のセレモニーのためにすっかり模様替えされていた。家具は全《すべ》て取り除かれ、真ん中に赤い絨毯《じゆうたん》が敷いてある。そしてその先端の壁には、小さな十字架が掛けられていた。  ジルは十字架の前まで彼を連れて行くと立ち止まり、思いをこめた口調で言った。 「サインして、ジョー。二人きりの結婚式よ」  ジョーはうなずき、ポケットからモンブランを取り出すと、壁に紙をあてたままサインをした。 「ジル」と、ジョーはその紙を彼女に手渡しながら言った。 「僕のかわいい奥さん。君は今、この瞬間から僕の妻になったんだ」  ジルの目から涙があふれた。ジョーは彼女を抱き寄せ、そっと額にキスをした。 「二人で天国へ行って一緒になるんだ。いいね」 「ああ、ジョー。愛してるわ」と、ジルが声をつまらせながら言った。 「神様はきっと私たちを見ていてくださるわ。天国で私たちを夫婦として迎えてくださるわ」  ジョーは大きくうなずいたが、何も言わなかった。彼はジルの気が変わるのを恐れて、この場は余計なことを言わないほうが賢明だと考えていたのだ。ちょっとした言葉に刺激されて、ジルが死ぬことをいやがり始める可能性があった。そうなったら、再び説得するのはひと苦労である。彼は黙ったまま、胸にすがりついて涙を流し続けているジルの頭をなでた。  この不快な重みともあと数時間後におさらばだと思うと、ジョーは嬉《うれ》しかった。実際彼は、少なくともここ半年ばかりの間、この重みにずっと悩まされ続けてきたのである。  彼のせいではなかった。ジルがあまりに世間知らずだったのだ。  彼がジルに近づいたのは、その魅力に男の本能を刺激されたからであって、結婚相手にふさわしいと思ったためではない。そんなことは彼のジルへの接し方を見ていればわかるはずだった。  二十五歳の若い男だったら、誰でも女とこういうつき合い方をする。女だってそうとわかりつつ、ラブゲームを楽しむところがあるのだから、あいこと言っていい。いいとか悪いとかの問題ではないのだ。  それなのにジルは、あろうことかジョーと結婚したいと言い出した。ジョーの父親は、マクニコル製鉄会社の社長である。人一倍、世間体を気づかう立場にいる父が、ひとり息子の結婚相手に、はたちそこそこの貧民の娘を許すはずはなかった。  父のロナルド・マクニコルは、ジョーの結婚相手には政治家の娘、パトリシアがいいと考えていた。パトリシアとは何度か会ったが、ジョーの好みのタイプだった。第一、いずれ父の跡を継ぐ彼にしてみれば、政治家の娘と結婚しておくのは利口なやり方である。  ところがジルは、なかなか別れてくれそうになかった。この種のパラノイア気質の女と手を切ることの難しさを、ジョーはつくづく思い知らされた。 「何を考えてるの、ジョー」  彼の胸にジルが子鹿《こじか》のように鼻を押しつけながらたずねた。 「僕たちのことさ」と、ジョーは答えた。 「僕が製鉄会社の社長の息子でさえなければ、こんなことをしないでも君と一緒になれたろうに」 「もういいのよ」と、ジルはからだを起こした。黒いまつ毛が涙で光った。 「あなたとは天国で一緒になれるんですもの」  ジョーはやさしく彼女にキスをし、できるだけさりげなく、そのからだを抱き上げた。 「さあ、ベッドへ行こう。もう何もこわくないだろう」 「もちろんよ。あなたは?」 「僕だってさ」  ベッドルームの小さなテーブルの上には、きちんと二通の遺書が並べられていた。一通は彼が昨日、文案を考えてジルに書かせたもので、もう一通は彼自身が適当に書いたものだった。彼女が死んだあと、彼が書いたほうの遺書を焼き捨ててしまえば何も疑われない。  二人はベッドに横になった。ジョーがポケットから白い錠剤の入った小瓶を取り出すと、ジルも枕の下から同じような瓶を取り出した。 「できるだけたくさん飲むんだよ。いいね。さもないと苦しいから」 「ええ」  二人は同時に瓶のふたを開けた。ジルがジョーにワイングラスを手渡した。 「最後の乾杯をしましょう。そしてこのワインで白いお菓子を飲みこむの」  ジルは情けないほどたくさんの涙を流して言った。ジョーはふとかわいそうな気もしたが、これも彼女の運命なのだと自分に言いきかせた。二人は乾杯をし、ジルは脇目《わきめ》もふらずに五粒、十粒……と錠剤を飲みこんでいった。  弔いの鐘が響きわたる中、喪服の一団が緑濃い墓地のはずれに集合している。  雲ひとつない青空だったが、風が強く、女性たちの黒のベールを幾度もひらひらと舞い上がらせていた。  これから埋葬されようとしている故人と縁の薄かった人々が、列の後方で口々に囁《ささや》き合った。 「本当にあんなに若いのに自殺してしまうなんて、あんまり悲しすぎますわ」 「よっぽど辛《つら》かったのでしょうねえ。遺書にもその辛さがしのばれるようなことが書いてあったそうですけど」 「しっかりしてたように見えても、男と女のこととなるとどうにも処理できなかったんでしょう。かわいそうに」  牧師が祈りの言葉を捧げて埋葬がひと通り終わると、人々は互いに肩を抱き合いながらその場を離れた。女たちのすすり泣きが風の音にかき消された。風の音以外、何も聞こえなかった。  人々の後ろを肩をおとしてゆっくりと歩く初老の男がいた。男のそばには、長身の青年がつきそっている。 「マクニコルさん」と、青年は言った。 「こんな時にこんなお話をするのは申し訳ないのですが、今朝、役所のほうへ行ってみましたところ、ご子息の結婚届は受理されていました」 「私にはわけがわからん」と、ロナルド・マクニコルはうめくように言った。 「あれほどパトリシアとの結婚を望んでいたというのに。何故《なぜ》ジョーはジルとかいう、どこの馬の骨かわからん女のアパートで自殺したんだ」  ロナルド・マクニコルは、立ち止まって青年を見上げた。 「君は顧問弁護士だ。私はジルという女をジョーの未亡人として扱うのは真《ま》っ平《ぴら》だ。何とかしてくれ」 「それはもちろんですが」と、青年はうなずき、やや事務的な口調で続けた。 「ただ、法的には二人は結婚しているのですから、何がしかの財産分けをする義務があなたにまわってくることは、止むを得ません」 「売女《ばいた》め!」と、マクニコルは吐き捨てるように言った。「金ならいくらでもくれてやる。だが、これ以上、マクニコル家の家名を汚すことは許さん!」  初老の紳士が歩き去るのを見送ってから、青年はくるりと背を向けて墓地のはずれの方ヘ歩き出した。大きなカシの木の後ろに、喪服を着た一人の魅力的な女性が立っていた。  女は、栗色の長い髪を風になびかせて、いたずらっぽく笑った。 「うまくいったよ」と、青年は言った。 「すべてが計画通りさ、ジル」 「こんなにうまくいくなんて夢のようね」  木洩《こも》れ日《び》がジルの顔にやわらかな模様を描いた。 「どれもこれもジョーにイマジネーションというものが欠けてたおかげよ。私が本当に心中の話に乗ったと思いこんだんですもの。ご苦労にも遺書まで書いてくれて。あのワイングラスにちょっとした劇薬がすりこんであったなんて、夢にも思わなかったんでしょうよ」 「おまけに結婚届にサインまでしてくれたんだからな。愚かな男だ」 「ほんの少し想像力を働かせれば、わかりそうなことだらけだったのにねえ」 「いやあ、でも」と、青年はさもおかしそうに喉《のど》を鳴らして笑った。 「君の本当の恋人がマクニコル製鉄会社の顧問弁護士だったことは、彼でなくともわからなかっただろうよ」 「未亡人の私はいくらもらえそう?」  小首を傾《かし》げたジルをさもいとおしそうに見つめて、青年は答えた。 「ふんだくれるだけ、ふんだくってやるさ。僕たちのスイートホームをビバリーヒルズに建てられるほどにね」  二人は抱き合い、ほほえみながらキスを交わした。 「ところで」と、青年は思い出したように言った。「ひとつ聞き忘れてたことがあった」 「なあに」 「奴《やつこ》さんの前で君が飲みこんでみせたっていう白い錠剤は、いったい何だったんだい」 「便秘薬よ」と、ジルが答えた。 「何だって?」 「ベンピの薬。ジョーの持ってきたバルビタール錠と形がそっくりだったんですもの」  青年の笑い声は、風に乗って墓地のむこうのなだらかな丘のかなたへと流れていった。  几帳面《きちようめん》な性格 「何ともむごい事故でした。メイヤーズさん。お察しします」  ボーマン警部補は、礼儀正しく目を伏せた。メイヤーズはこの一言で、自分が疑われていないことの確証を得た。すべては計画通りだ。あとは、妻を失った悲しみを演じ続けていればいい。 「こんなことってあるのでしょうか。私には信じられません」 「ごもっともです。誰だって予測もつかなかったことでしょう」 「いったいどうして……」と、メイヤーズは首を左右に振り、涙声を出した。ボーマン警部補は、すかさず彼の肩に手を置き、いたわるように二度ばかりたたいた。 「熱いコーヒーでも入れさせましょう。説明はそのあとにしたほうがよさそうですね。あなたは相当なショックを受けておられる」  メイヤーズはポケットからハンケチを取り出すと、音をたてて鼻をかんだ。 「大丈夫です。それより何故《なぜ》、こんなことになったのか聞かせて下さい」  ボーマン警部補は自分の机に戻り、ゆっくりと椅子《いす》に坐《すわ》ると、机の上で両手を組んだ。 「まだ検証中ですが」と、彼は言いにくそうに言った。 「いまのところ、ボイラーについているパイロットファイヤーの火が何らかの形で消えたため、ガスが家中に充満して、火気による大爆発がおこったと考えられています。おそらく風か何かで、パイロットファイヤーが消されてしまったのでしょう。遺体の損傷具合から言って、かなりの量のガスが充満していたようです」 「彼女は、そんなにひどい状態だったのですか」 「申し上げにくいことですが、救出に行ったレスキュー隊員の話ですと、顔かたちの見分けがつかないほどだったそうです」 「おお」と、メイヤーズは頭をおおった。 「うちのボイラーは、ここのところずっと調子が悪かったんです。明日にでもガス会社の人に来てもらうよう、今朝、妻のサリーに言っておいたばかりでした」 「お気の毒です。本当にお気の毒です」  ボーマン警部補は、何度もそう繰り返した。指の間からこっそりその様子を窺《うかが》って、メイヤーズはすっかり有頂天《うちようてん》になった。  これほどうまくいくとは、正直なところ彼も思っていなかったのだ。  妻のサリーと二人暮らしのところに、妻の従姉妹《いとこ》でかわいらしい小鳥のようなジュディが舞い込んで来たのは、ちょうど一年前だった。  ジュディは快活で頭もよく、そのうえセクシーな自由人だった。いつもしかめつらをして、規則正しい生活を守ろうとする神経質なサリーとは正反対だった。  なにしろサリーときたら、生活それ自体を時間割にしていないと気のすまない性格なのである。朝食は七時。夕食は夜の七時。一分でも遅れると機嫌を損ねる。セックスだって、水曜の夜と土曜の夜……というように決めてかかっていた。  息のつまるような生活に、かろうじてメイヤーズが我慢していたのは、サリーが主婦として完璧《かんぺき》だったからだ。家の中はいつもピカピカ。料理の腕も上等だった。  だが、そんなこともジュディの出現によっていっぺんに無意味なものとなった。メイヤーズはジュディに惚《ほ》れこんだ。  初めのうち、ジュディはサリーに遠慮してか、彼を避けていたが、その頑《かたく》なな態度もまたたく間に溶解した。  サリーが屋根の修繕屋に長々と抗議の電話をかけているすきに、キッチンの片隅でメイヤーズはジュディにとろけるようなキスをした。若いジュディは彼に身を任せ、待ちこがれていたかのように唇をむさぼり求めてきた。秘密の恋は成就し、やがて二人は結ばれた。  サリーの目を盗んでジュディと愛し合えば愛し合うほど、メイヤーズはサリーが邪魔で仕方なくなった。ジュディとは年が四つしか違わないというのに、サリーにはすでに若さが失われていた。軍隊のような規律正しい生活もうんざりだった。  離婚を考えたことはあった。しかし、この小さな町では、妻と別れてすぐその従姉妹と結婚することは、はばかられた。ジュディに対する世間の風当りは充分、想像がつく。それにサリーが離婚に同意するはずもなかった。サリーにとって結婚生活とは、人生という大きな時間割の中でなくてはならない重要なものなのだ。それを失うことは、彼女にとって人生のある時期を空白にしてしまうことになる。  一計を案じたのはメイヤーズではなく、ジュディのほうだった。簡単で、しかも決して証拠が残らない方法。ジュディは本当に頭がよかった。  サリーはいつも、夕食のデザートにパイを焼く。日によってアップルパイだったり、チェリーパイだったりするが、とにかく毎晩、デザートはパイと決めていた。  そして、そのため毎日、きっかり六時に下ごしらえ済みのパイの入ったガスオーブンが点火されるよう、あらかじめタイマーをセットしておく。つまりそうしておけば、七時からの夕食が終わったころ、焼きたてのおいしいパイが出来上がっているという計算なのだ。  この異常な几帳面《きちようめん》さを逆利用するのよ、とジュディは言った。  キッチンのガスを供給しているボイラーのパイロットファイヤー。その小さな青い火をジュディがそっと吹き消す。時間は午後の四時ころがいい。ガスが徐々に充満し始める。近所の人に疑われないよう、ジュディは何くわぬ顔で買い物か何かに出かける。  サリーはおそらくそのころは居間にいるから、ガスの匂《にお》いには気づかない。サリーが夕食の仕度のためにキッチンに立つのは六時きっかりだから、気づかれる心配もない。  そしてタイマーが六時を指す。自動的にオーブンが点火される。大爆発。サリーの死。  外出していたジュディは、帰宅後、惨事を知ったことにして警察へ駆けつける。メイヤーズもオフィスから駆けつける。二人はそこで、改めてサリーの�事故死�を悼む芝居をする……。  もうすぐジュディがあわてふためいたふりをして駆けつけるだろう、とメイヤーズは思った。一刻も早くジュディに会いたかった。今晩は二人で堂々とホテルに泊まり、互いの武勇伝を話し合って存分に愛し合える。  あの小うるさい、目覚まし時計のようなサリーがいなくなったのだ。ジュディだってさぞかし有頂天だろう。そう考えて彼は思わず口元をほころばせ、すぐに気づいて元にもどした。  部屋にノックの音がした。ボーマン警部補は「ちょっと失礼」と言って立ち上がった。  ドアが大きく開いた。背の高い警官のうしろに女の影が見えた。ジュディだ。メイヤーズは立ち上がり、両腕を拡げた。  だがその両腕の中に飛びこんで来たのはジュディではなかった。 「あなた。ああ、あなた。何て恐ろしいことになってしまったんでしょう」  メイヤーズは悪い夢でも見ている気分になった。わけがわからなかった。 「奥さんは、ショックのため病院へいらしてたのです」  背の高い警官はそう言った。サリーは呆然《ぼうぜん》としているメイヤーズの腕の中で、気違いのように泣きじゃくり、喋《しやべ》り始めた。 「私、いつも水曜日の午後には階段にワックスを塗るでしょう。そうよ。あなただってジュディだって、そのこと知ってたはずだわ。なのに、ジュディったら何をあんなに急いでたのか知らないけど、ハンドバッグを持ってすごいスピードで階段を駆け降りてきたのよ。それであっという間に足をすべらして……。私がそばへ行ったら、足首を折ったか何かしたらしくて動けないの。足首がブラブラしてたのよ。かわいそうに。それで私、もうびっくりしてしまって人を呼びに外に飛び出したの。そしたら、すごい爆発音がして。ああ、あなた。すごかったのよ。ジュディがまだ中にいるというのに……」  そこまで言うとサリーは、くるりとボーマン警部補の方を向いた。 「パイロットファイヤーが消えてたなんて全然、気づかなかったんです。私はいつも六時に点火されるようオーブンのタイマーをセットしておくんですが、今日だけは一時間早めて、五時にセットしておいたんです。いつも通りだったら爆発がおこるにしても六時でした。六時だったらジュディは死なずにすんだんだわ。あの娘《こ》外出しようとしてたんだから」 「落ち着いて下さい、奥さん。あなたのせいではありませんよ」と、ボーマン警部補はやさしく言った。サリーは顔をくしゃくしゃに歪《ゆが》めて、メイヤーズを見上げた。 「今日は、私たちの結婚記念日よ。私、年に一度のこの日にはいつもローストチキンを焼くでしょ。チキンを焼く時、オーブンタイマーは五時にセットする習慣なの」  今日が結婚記念日ということをすっかり忘れていた。きっとジュディは直前になってそのことに気づいたのだ。それであわてて階段を駆け降りて……。  メイヤーズは気を失った。  待ちわびた招待 「ねえポリー、聞いてよ」  受話器から親友ジョアンの興奮した声が耳に飛びこんできた。 「信じられないことがおこったの。何とあのニックが私を夕食に誘ってくれたのよ」 「まあ、ニックが!?」と、ポリーは内心おだやかならぬ気持で叫んだ。 「そうなのよ。ついさっき電話があったの。今夜八時にアパートに来て下さい、って。簡単なオードブルでワインでもご一緒しませんかって言うの。信じられないわ」 「それでジョアン、何て返事をしたの」 「もちろん伺いますって言ったわよ。ポリーと一緒に、って」 「だってニックはあなたを誘ったんでしょう。私がついていったら悪いわ」 「何を言ってるのよ、ポリー。私たち二人ともニックの大ファンなのよ。私だけいい思いをするなんて、あなたに申し訳ないじゃないの。それにポリーと二人で行きますって言ったら、彼、心から嬉《うれ》しそうに是非そうして下さい、って言ってたわよ」 「それ、ほんと?」 「ほんとよ。ね、だから二人で行きましょうよ。七時半にあなたのアパートまで車で迎えに行くわ。いいわね。じゃ、その時に」  受話器を置いてから、ポリーは考えた。ニックがジョアンにだけ電話して夕食に誘ったのは、きっと私に電話するのが照れくさかったからだ。ジョアンを誘えば絶対に私も来ると予想していたんだ。ニックの本命はジョアンじゃなくて、この私なのよ……。  ポリーは、自分があまり美人ではないことを知っていた。太っているし、赤毛だし、そばかすだらけ。笑う時、鼻の頭にしわを寄せてしまう癖もなおらないし、どうしても魅力的にふるまえない。  だが、ジョアンは自分よりもっとひどい、とポリーは思っていた。体重はどう見てもポリーより十ポンドは多いし、同じ赤毛でもジョアンの赤毛はツヤがなくてパサパサしていた。それに顔立ちが田舎《いなか》くさいから、流行のファッションがぜんぜん似合わないのだ。そんなジョアンと自分とを並べて、あの都会的なハンサムボーイ、ニックがジョアンを選ぶとは到底、ポリーには考えられなかった。  ニックが二人の目の前に現われたのは、つい一週間ほど前のことである。恋人のいないポリーとジョアンが、いつものようにシングルス・バーに行って男あさりをしていた時、二人はニックに話しかけられたのだった。 「よろしかったらお仲間に入れて下さい」  ニックはそう言って微笑《ほほえ》んだ。背の高さといい、足の長さといい、知的で端整な顔といい、申し分のない男だった。二人はすぐに彼に夢中になった。  ジョアンはその後、「あの夜、ニックはあなたにばかり話しかけてたわ」と、ポリーをひやかした。ポリーはそう言われると嬉しかった。確かにあの晩、ニックはどちらかというとジョアンよりポリーと多く話したのだ。そのニックが自分にではなく、ジョアンに電話をしたというのはやはり何か深いわけがあるに違いない、とポリーは考えてわくわくした。ジョアンを酔いつぶれさせて寝かしつけたあと、私を口説《くど》くつもりなんだわ……と。  ジョアンの車でニックのアパートに行くと、ニックはとろけるような甘いまなざしで二人を迎えた。ポリーはうっとりとした。  部屋の中は暖房がきいていて温かかった。ジョアンはよく喋《しやべ》り、よく飲んだ。ポリーはもっと飲みたかったが我慢した。ジョアンが酔いつぶれた時、自分が正気でないとニックが口説いてくれなくなるかもしれないからだ。ニックはジョアンのお喋りをにこにこしながら聞いていたが、あまり飲まなかった。ジョアンとポリーが上気して赤い顔をしているのに、ニックの肌は大理石のように青白い。 �さわったらきっと冷たいんだわ�  その冷たい肌に抱かれることを思ってポリーが胸を高鳴らせた時、 「ところでジョアン、ポリー」と、ニックが言った。 「僕はひとつ、おもしろい話をあなた方に聞かせたいんです」 「あら、何かしら」と、ジョアンが目を輝かせた。 「おもしろい話なら何でも聞きたいわ」と、ポリーも言った。ニックは微笑して二人のためにワインをついだ。 「僕はいまは独身です。でもつい半年前までは結婚していました。妻はアンジェリカという名の可愛《かわい》い女でした」 「あらまあ、ニック。それじゃあなたは離婚なさったわけ?」と、ジョアンが声をはりあげた。ポリーも生唾《なまつば》を飲みこんだ。ニックに結婚歴があるなんて初めて知ったのだ。 「いえ離婚したわけではありません。アンジェリカは半年前に事故にあったのです。むごい事故でした。大型トラックにはねられたのです。しかも彼女はその時、僕の子供を妊娠していました」 「まあ、ひどい」と、何か言わなくてはと思ったポリーが溜《た》め息《いき》をついた。ニックはゆっくりとポリーを見た。 「そうなんです。ひどすぎる。急を知らされて僕は病院に飛んで行きました。その時はまだアンジェリカは生きていました。彼女は僕の手を握りしめながら、息もたえだえになって事故の話をしてくれました。彼女が道を横断しようとした時、遠くでトラックが急にスピードをあげて走って来たのだそうです。危ないと思って引き返そうとすると、急いでいるらしい一人の女がものすごい勢いで走って来て彼女にぶつかった。妊娠中の妻はバランスを失って、持っていた買物かごを落としてしまった。こぼれた中のものを拾おうとしていたところに運悪くトラックが……。急停車しても間に合わなかった」 「奥さんは大怪我をなさったの?」と、恐る恐るジョアンが聞いた。 「いや、三日後に死にました。むろん赤ん坊も。最愛の妻とその愛の結晶を失って、僕は気が狂いそうでした」 「お気の毒に」と、ジョアンとポリーは口々に言った。ニックは再びゆっくりとポリーを見た。 「僕はその女が憎い。もしその女がアンジェリカを突き飛ばしたりしなければ、あんなことにはならなかったんです」 「でもその人、自分が突き飛ばしたせいだと思って、今も悩んでるでしょうね」と、ジョアンが言った。 「ところが騒ぎがおこった時には、もうその女はいなかった。よっぽど急いでいたらしくて、妻の買物かごが落ちたことにも気づかなかったようです。僕は妻にどんな女だったかと聞きました。妻は覚えていました。OKドラッグストアの大きな緑色の包みをもった、太った女だったと言ってました。僕はアンジェリカが死んだあと、その女を探すことにしました」 「探してどうなさるの」と、ジョアン。 「妻と同じ目にあわせてやるのです」  ポリーは急に不安になった。ニックの視線はポリーにからみついて離れない。 「僕はOKドラッグストアに行って調べました。その女のことはすぐにわかりました。妻が事故にあった日、OKドラッグストアではダイエットビスケットのセールをしていました。その女は、五箱買って問題に答えると一年分のビスケットが当たるという、店のクイズに応募したのです。そのため、名前の記録が店に残っていました。僕はその名をたどって女の居所をつきとめました」 「その人……そこにいたの?」  ジョアンがすっかり酔いがさめた口調で聞いた。ニックはそれに答えず、机の上の小箱を開けて四十五口径のピストルを取り出し、ポリーを見つめた。 「待って、ニック!」と、ポリーは恐怖に顔をひきつらせて叫んだ。 「いいえ、待ちません。やっと見つけたのですから」 「ポリー!」と、ジョアンが叫ぶや、ニックは銃口をジョアンに向けて引き金を引いた。ジョアンは声もたてずに椅子《いす》ごと倒れ、口から血を吹き出した。  ポリーの腰が抜け、スカートがめくれ上がった。下着を丸出しにして床の上をはいずり回っていると、ニックが静かに声をかけた。 「今夜は本当はあなたには用がなかったんです。用があったのはジョアンでした。もうお帰り下さい。僕にはまだやり残したことがあるんです」  やっとのことでポリーは立ち上がり、よろけながらアパートを出た。冷えきった夜の町を彼女は狂ったように独り言を言いながら走り続けた。 「違う。違う。ジョアンじゃない。OKドラッグでダイエットビスケットを買ったのは私。五箱買えば一年分のビスケットが当たるからって、私、応募したけど……。でも、でも、もし当たって私のアパートにダイエット用のビスケットが一年分も届けられたら、あの管理人の息子……ああ、あの人とってもハンサムなんだもの……あの人に見られて恥ずかしい思いをするだろうからって……私、ジョアンの名前と住所を書いたのよ。アンジェリカなんていう人、知らない。誰かを突き飛ばしたのは覚えてるけど。だって、私、あの時トイレに行きたくって、とっても急いでたんだもの。だから……だから……とにかく、ジョアンじゃないのに……」  その時、ニックのアパートの方で銃声が聞こえた。あの冷たい大理石のような肌が血にまみれているところを想像して、ポリーはもう一度、声をあげて泣いた。  気にくわない奴  人生で大切なことは、気にくわない連中を遠ざけていくことである。不愉快な人間を相手にするからストレスがたまるのだ。気に入った人とだけ関《かか》わっていれば、いらいらしたり不眠症になったり、作りたくもない皺《しわ》を作ったりしなくてもすむ。  かねがねあたしはそう思ってやってきた。でも最近とみに、気にくわない人間に気にくわないことを言われる時が多くなってうんざりしている。ことにあの日はひどかった。  原因を作ったのは、もちろんあのいけすかない演出家、ロジャー・スミスだ。彼は、いつもの赤いボウ・タイを太った指でいじくりまわしながら、演技実習が終わったばかりのあたしを呼び出した。 「グロリア、いい話がある。君を今度のシアター・ハドソンでやる『悪女イブ』のキャロル役に抜擢《ばつてき》しようと思うんだが、どうかね」 「まあ、本当ですか」  あたしは飛びあがらんばかりに喜んだ。当然だ。なにしろあたしは、ハイスクールを出てこのロジャー・スミス俳優養成所へ来て以来、十年間というもの一度だって本物の舞台に立たせてもらったことがないのだから。  それにシアター・ハドソンは二流劇場とはいえ、舞台評論を書く記者たちが多く来る。うちの養成所からあそこへ出て、記者の目にとまり有名になったケースはけっこうあった。  主役ではないにしても、キャロル役は出番が多い。必ず新聞に書いてもらえる。  やっとあたしにもツキが回ってきたのだ、才能を認めてもらえるチャンスがきたのだ……あたしは胸をときめかせながらロジャー・スミスに礼を言った。  ところが彼はそんなあたしをしげしげと眺めると、皮肉っぽい笑みをうかべた。 「うちの養成所は一人残らず舞台デビューさせることで有名なんだ。十年間もデビューのチャンスがなかったのは君と、君の同期生のコーラだけ。ここらで整理しとかんとな」 「あの」と、あたしは言葉の意味がよくわからなかったのでたずねた。 「整理するって、どういう意味なんですか」  いまから思えば、ばかな質問だった。ロジャー・スミスは「そんなこともわからんのか」とでも言いたげにニヤリとしてあたしを見下した。 「あとが詰まっとるという意味だよ。舞台女優のスターを送る名門養成所としてのうちは、君やコーラにいつまでもウロウロされてはかなわんのだ。これは私からのお別れのプレゼントだよ、グロリア。ま、しっかりやりたまえ」  ロジャー・スミスは片目を糸のように細めてウィンクした。  あたしはその晩、くやしくて眠れなかった。彼があたしに役をくれたのは、おなぐさみだったのだ。かわいそうなグロリア、才能のない君にあえて役を与えるんだから感謝したまえ……というわけだ。そして、まるで三日ぶりに缶の中に一ドル札を投げこんでもらえた飢えた乞食のように喜びふるえるあたしをばかにした目で眺めたという寸法なのだ。  でも何といっても、報われない女優の卵にとって舞台に出られるということは、大きなチャンスである。生かさない法はない。  あたしはそう考えて、ロジャー・スミスに言われた皮肉を忘れようと努力した。  コーラがあたしをお茶に誘ったのは、その翌日のことである。彼女は目の下に隈《くま》を作り、たいそう疲れている様子だった。あたしたちは近くのコーヒー・ショップに行き、チョコレート・ソーダを飲みながら話をした。 「ねえ、グロリア。あなただから話すんだけど、ゆうべひどい目にあったの」  あら、あたしもよ、と言いかけてあたしは口をつぐんだ。ロジャー・スミスのことを話せば、当然、キャロル役があたしに決まったこともコーラに言わなければならなくなる。落ちこんでいる様子のコーラにこれ以上、ショックを与えるのはよくないとあたしは判断した。  コーラはマルボロに火をつけると、いらいらした様子で煙を吐いた。 「あたし、ゆうべあのロジャー・スミスのやつに犯されそうになったのよ」 「何ですって!?」 「犯すにあたって、あいつ何て言ったと思う? 今度のシアター・ハドソンでのキャロル役をやるから言う通りにしろ、って言うのよ。ああ、けがらわしい。あたし、泣きながら逃げたの」 「何てことなの、コーラ。あんまりだわ」  あたしはからだの芯《しん》から怒りがわき上がるのを覚えた。 「いい、コーラ。あいつはあたしにキャロル役をやるって昨日、言ったのよ。確かよ。あいつがその話をもち出したのは、あなたのからだが欲しくて言ったのよ。口から出まかせだったんだわ」 「まさか、あなたも……」 「いいえ、あたしは何もされてないわ。とにかくロジャー・スミスをこらしめてやるべき時がきたのよ。ここにいて、コーラ。あたしこれからあいつに会ってぶちまけてくる」 「そんなことしたって無駄よ、グロリア。あの男は何を言われたって、蚊《か》に刺されたほどにも痛みを感じない男よ」 「だからといって黙ってることはないわ」  あたしはチョコレート・ソーダを一息に飲みほすと席を立ち、そのまま養成所のほうへ駆け出して行った。  ロジャー・スミスはパンダのように太った背中をソファーに埋めて、興味深そうにあたしを見た。  あたしはコーラから聞いた話をし、精一杯皮肉めいた口調で、彼の人柄が信用できなくなったと付け加えた。  ロジャー・スミスはひと通り聞き終わると悠然と立ち上がり、デスクの上から黄色い紙を持って来てあたしに見せた。 「これを見てごらん。『悪女イブ』のキャスティングをタイプで打ったものだ。今週中に私はこれにサインし、プリントして正式に発表することになっている。だがキャロル役のところはまだ空欄だ」  あたしはいやな予感がして彼の顔をまじまじと見つめた。 「昨日までは君にしようと思っていた。だが君がそれほど私のことを信用できないと言うのなら、コーラにやってもらうしかないね。正直なところ、キャロル役は君でもコーラでも、どっちでもいいんだ。こう言っちゃ悪いが、君もコーラも二人ともうちの養成所始まって以来の能なしだ。二十八にもなってうちからデビューできない人間は、あとにも先にも君とコーラしかいない。今度の舞台は君たちのうち一人だけデビューさせて、残ったほうにやめてもらうためでもあるんだ。私だって慈善事業をしているわけではないんでね」  そう言いながら、ロジャー・スミスはタイプライターの前に坐《すわ》り、ゆっくりとキイをたたいた。その口元にはねずみを食べた後の猫のような、残酷な笑みが浮かんでいた。  タイプを打ち終わると、彼は黄色い紙を私の前にもう一度、さし出した。そこには「キャロル=コーラ・ワトソン」と打たれてあった。あたしは黙って立ち上がり、外へ出た。  そして、その日から二か月。  計画を練るのに手間はかからなかった。なにしろ養成所というところは、小さな稽古《けいこ》場だの、照明器具だの、大道具などが寄せ集まってできている。�事故�がおこるために、これ以上、ふさわしい場所はないくらいだ。  予定通り計画は運んだ。毎晩、演技の個人レッスンを終えたあと、ブランデーをたっぷり入れたティーを飲む習慣のある人間というのは、本当に操りやすい。  あたしはあらかじめティー・ポットの中にいつもより少し多い目のブランデーを入れ、ついでに睡眠薬も混ぜておいた。微量でもよく効くタイプの睡眠薬である。その効果のほどは、以前あたしが何度もためしているので実証ずみ。くやしくて眠れない夜に、必ずお世話になった頼れる薬だ。  大道具部屋に隠れて待つこと二時間。薬の効果は完璧《かんぺき》だった。  眠りこけている重たいからだをそのまま引きずっていくほど、あたしもばかじゃない。車輪付きの手押しワゴンに乗せさえすればいいのだ。  所内にはもう誰もいない。あたしはワゴンを押して裏階段の上がり口まで行き、急なスロープ目がけて一息にワゴンを傾けた。  地響きとともに、肉や骨がひしゃげる音がし、そして再び静かになった。  人生で大切なのは、気にくわない連中を遠ざけていくことだ。本当にそう思う。ただし利用できる人物は残しておくこと。それが肝心だ。  あたしは階段の下まで行って、そっとからだに触れてみた。気の毒なコーラは完全にこと切れていた。 『悪女イブ』の公演初日まで、あと三日しかない。ふつうの人間だったら、三日間で役作りはできないだろうけど、あたしはこの日に備えてキャロル役のせりふも動きも、全《すべ》てマスターしておいたから大丈夫。  前売券は完売の状態なのだ。あいつは舞台に穴をあけないよう、すぐさまあたしを起用するだろう。なにしろあいつは、昔から道徳より名声と金を重んじる奴《やつ》だったから。  三日後、あたしはシアター・ハドソンで華々しくデビューする。コーラの死に関してあたしを疑うであろうロジャー・スミスの口を封じるのは、それからでも遅くない。  ばかなロジャー。殺されないためには、いつだって「利用できる人物」の看板を掲げておかなくちゃいけないのに。でももう遅い。デビューさえしてしまえば、あんたはあたしにとって、たたいても埃《ほこり》すら出ない男になっちゃうのよ。  知らなかった偶然  自分の悲鳴でベッドの上にはね起きたベン・ハミルトンは、夢だとわかると大きなため息をもらした。胸と脇《わき》の下が冷たい汗でぐっしょりと濡《ぬ》れている。  あの夢を見たのは久しぶりだった。アパートの玄関から白いアメーバのようなものが部屋の中に入ってくる。テニスラケットの先で突いて追い出そうとすると、そのアメーバは次第に白いコートを着た刑事になる。そして刑事が言うのだ。 「君をコナーズ殺しの容疑で逮捕する」  彼は逃げ出すのだが、白いコートの刑事は再び白いアメーバに姿を変えて彼を追いかけてくる。逃げても逃げてもアメーバとの距離は縮まない。思い余ってアパートの屋上から飛びおりる。  すると、地面で別のアメーバが彼を待ち受けている。どこを見てもミルク色をした白の世界……そこできまって彼は悲鳴をあげ、目を覚ます。  ベンは胸を伝って流れる汗を手のひらで拭《ぬぐ》いながらキッチンへ行くと、水道の蛇口を全開にして手と顔を洗い、ついでに口をゆすいだ。  前の晩、パティ・ブライアントの家に正式に結婚の申し込みに行った時まで、ベンはあの夢のことなどほとんど忘れかけていた。彼は陽気で、明るい未来にうっとりしているごくふつうの二十八歳の青年だった。  婚約者のパティは若く魅力的で、申し分なくやさしい女性である。そのパティを心から愛したことで、ブライアント夫妻は彼をとても信用してくれていたし、一人娘の伴侶《はんりよ》になることも気持よく許してくれた。 「パティがカレッジを卒業したら」と、ブライアント夫人はデザートのエスプレッソを前にして母親らしい口ぶりで言った。 「すぐに結婚なさいな。こういうことは早い方がいいわ。ね、あなた」  ブライアント氏も微笑してうなずいた。  ベンはこのうえなく幸福な気持でパティの手を取った。その手は白くてすべすべしていた。一生この手を離すまい、と彼は心に誓った。  だが食後、映画に行こうということになって、パティが着替えのため席を立った時のこと。ブライアント夫人がこっそりベンを居間に呼んで言った。 「実はね、ベン、パティの夫となるあなたに私から折り入ってお願いがあるの」  夫人はうつむいてためらったあと、意を決したように口を開いた。 「今のブライアントがあの子の本当の父親ではないってことは、あなたも知ってるわね」 「はい。パティから聞きました」 「あの子の本当の父親はね、ベン。殺されたの。もう十年も昔のことだわ。私たちがピッツバーグに住んでいた時よ。鉄鋼所の横で強盗にあってね。撃ち殺されたの。犯人はつかまらなかったわ。そしてもっと哀《かな》しいことに」と夫人は当時を思い出したのか、目をうるませた。 「まだ八歳だったパティは、父親が殺されるのを目の前で見てしまったのよ。ベン、お願い」  彼女はふるえる手でベンの腕をとった。 「ショックが尾を引いているあの子は、決してその話をしなくなったわ。それに男の人のことを信じなくなった。男がみな自分の愛する者を奪っていく悪魔のように見えたのね。そんなあの子が心を許したのはあなただけよ。あなたの中に死んだ父親のもっていた大きな愛を見つけたのよ。だからお願い。あの子の一生の支えになったつもりで、幸せにしてやってちょうだい。それから」と、彼女は洟《はな》をすすった。 「こんな話を私がしたということは、決してあの子には言わないで」  ベンは急に寒気がし始めたので、風邪《かぜ》を理由にいとまを告げた。パティの顔は見るのもつらかった。  十年前、ベン・ハミルトンはピッツバーグの近くの小さな町に住んでいた。アルバイトで酒場の皿洗いをした時、彼は店に来ていたニューヨークからの流れ者と知り合い、ドラッグを覚えた。そしていけないことと知りつつ、ドラッグを買うための借金を重ねた。彼を育ててくれた祖父には何も相談できなかった。  ついに借金で首が回らなくなった彼は、強盗を思いついた。ピストルを突きつけさえすれば、人はたいてい命の保証と引き換えに金を出すさ……ニューヨークから来たチンピラはそう言っていた。それに、夜、うしろから襲えば顔を見られなくてすむ……と。  ある晩、ピッツバーグの近くの鉄鋼所の脇で、彼は計画を実行に移すことにした。ちょうど恰幅《かつぷく》のいい、いかにも金を持っていそうな四十くらいの男が一人で歩いて来た。  ベンは男の背後にしのびより、ピストルを突きつけた。ところが予定がはずれた。男は肘《ひじ》を使ってベンのみぞおちに強烈な一撃を加えると、羽交いじめにしてこようとしたのだ。顔を見られることの恐ろしさに、ベンは夢中で男に向けて引き金を引いた。  殺すつもりはなかった。だが弾丸は男の喉《のど》を貫通した。血が噴水のように吹き出した。  その時、「パパ」という声がした。幼い女の子の声だ。うしろを見ると七、八歳の女の子が立ちすくんだまま、ベンをじっと見ていた。ベンはこわくなって何も盗らずに逃げた。殺した男がコナーズという名だったことはあとで知った。だが警察はベンを疑うどころか、話を聞きにも来なかった。ほどなくして彼は、ピッツバーグを離れてブルックリンに移った。それから十年間、何事もおこらなかった。ベンがあの夢を見続けた以外は。  ブライアント夫人が昨夜話したことは、明らかにコナーズ殺しの話だ。十年前というとパティは八歳。ピッツバーグ。鉄鋼所。銃殺。すべてが符合する。ベンは頭をかかえた。  パティは十年前のあの時、たしかにベンを見たのだ。いま思い出さなくとも必ずいつかは思い出すに違いない。そうなったらいったい……  玄関をノックする音がした。パティだった。胸に温かそうなシチューの入った容器を抱えている。 「風邪の具合はどう、べン。ゆうべは心配したわ」  パティは栗《くり》色のつややかな髪を肩まで垂らし、愛らしい瞳《ひとみ》を輝かせてベンの前に立った。この汚れない清らかな娘が、自分の父を殺した男と結婚した事実を知ったら……!  パティに去られたあげく、死刑台に上る自分を想像してベンは身震いした。運命のいたずらといえど、あまりにひどすぎた。  ベンはそっとパティを抱き寄せ、髪の中に鼻をうずめた。シャンプーの匂《にお》いがする。ベンにからだをまかせていたパティが言った。いつもと違う他人行儀な口調だった。 「ベン、今日はお話があって飛んで来たの」 「話って……?」と、ベンはからだをこわばらせた。 「私たちのことよ。ゆうべママがあなたに言ったこと。私、ママから聞いてしまったの」  ベンはこの時、世界の終わりを悟った。彼女の額にキスをし、パティ、愛してるよ……と心の中で叫びながらベンは汗に濡れた指を彼女の首に巻きつけた。パティは一瞬、何がおこったのかわからないというように目を大きく開けた。そしてその目は次第にうるみ、焦点を失ってただの二つの青いビー玉のようになった。小鳥のように簡単に息絶えてしまった彼女を抱いて、ベンは泣きじゃくった。 「ごめんよ、パティ。こうするしか仕方なかったんだ。僕が君のパパを殺した人間であることが君にわかられてしまうよりは、こうして僕の手で君を……」  その時、電話が鳴った。ベンはびくっとして黒い電話機を見つめた。今さら逃げることはない、と彼は自分に言いきかせた。パティを車に乗せて二人で遠くに行き、自分も死ぬのだから……と。  彼はパティのからだを静かに床の上に寝かせると、鳴り響いている電話の受話器を取った。 「ハロー、べン。いたのね」  ブライアント夫人だった。彼は嗚咽《おえつ》してしまわないよう深呼吸してから声を出した。 「ハロー」 「パティがそっちに向かったのだけど、もう着いたかしら」  ベンはちらりと床の上のパティを見ながら首を振った。 「いえ、まだです」 「そう。もうすぐ着くと思うわよ。温かいシチューを持ってね。ところでベン、昨夜は本当に具合が悪そうだったけど、大丈夫? まさか私があんないたずらをしたせいで、急に風邪をひいたんじゃないでしょうね。あとでパティに怒られちゃったわ。またママの悪い癖が始まった、って」  夫人はさもおかしそうに笑った。べンは息をのんだ。 「どういうことです」 「いやね、ベンったら。あんな話、信じないでよ。私は昔から人をかついで驚かせるのが好きでやめられない性分なの。平凡に生きてる人に刺激を与えてやるのって、一種の社会奉仕ですものね。でもちゃんとあとで本当のことを言うし、迷惑をかけるようなかつぎ方は一度もしなかったわ。その証拠に、ほら、あなたにこうやって本当のことを言ってるでしょ」 「それじゃ、あの話は」 「パティの父親が病気で死んだ年に、私たちが住んでいたピッツバーグでおこった事件を拝借して話しただけ。怒らないでよ、ベン。少なくとも一晩、ドラマティックな気分でいられたでしょ」  ベンが黙っていると夫人は続けた。 「もうすぐパティが大真面目《おおまじめ》な顔してやって来るわよ。ママのこと許して、って。あの子ったら……」  ベンの手から受話器がすべり落ちた。混乱した頭の中で彼は、このいまいましい大嘘《おおうそ》つきの中年女をパティとの死出の旅に誘おうと決心した。  ぶら下がった受話器の奥で、ブライアント夫人のかん高い声が「ハロー、ハロー」と繰り返している。ベンはゆっくり十年前のピストルをポケットにしのばせると、ドアに向かって歩き出した。  死体のそばの犬  抱き上げたサラ・ブレナンのからだは、少なく見積っても百四十ポンドはありそうだった。このいまいましい肉の塊を両手に抱えて歩くなど、サラが生きていたら考えられないことだったが、いまのロイは不平など言うつもりもなかった。  彼は二の腕に若々しい筋肉を隆起させながら、裏庭へ出るドアを楽々と開けた。外は乳白色の霧がかかっていて、おまけにまだ薄暗かった。彼は自分の吐く息が白いのと、腕の中に横たわっているサラの鼻や口元から白い息がまったく洩《も》れていないのを確認すると、自信たっぷりに裏庭の犬舎へと向かった。  使用人のマーサの部屋は、まだ鎧戸《よろいど》が固く閉じられている。マーサが起き出してくるまでは、あと一時間以上も時間があった。  ロイは納屋のように大きな犬舎の入口に立った。耳をすますと、中から規則正しい大きな寝息が聞こえてくる。 「ばかイヌめが」とロイはつぶやいた。 「主人が死んだというのに高いびきだ」  彼はにんまり笑った。このドゥードルという名のばかでかいセントバーナード犬がもう少し賢かったら、こんな計画もたてられなかったのだ。  ドゥードルは、人間の年にして八十歳を超えていると思われる老犬である。仔犬《こいぬ》のころから動作が緩慢だったため「ドゥードル(=のらくら)」と命名された。年をとっていっそうのろまになり、最近では食べているか眠っているかの生活だった。  ただ、食い気だけは若いころと変わらず、今でも一日にたっぷりバケツ二杯は食べている。そのうえ甘い物には目がなく、鈍っているはずの嗅覚《きゆうかく》もロイのポケットに入っているキャンデーの匂《にお》いなどをすぐに嗅《か》ぎ当てた。そして巨体をゆすらせ、汚れた古い毛布のようになった毛をあちこちに落としながら、一目散《いちもくさん》に突進してくる。  サラを訪ねてきた親子連れの少女のほうが、たまたまチョコレートを手にしていたため、裏の犬舎から飛び出してきたドゥードルにいきなり飛びつかれて、親子ともども失神してしまったこともある。以来、サラはドゥードルにやたら長い皮紐《かわひも》をつけて、犬舎につないでおくことにしていた。  それは、大型犬用の頑丈な皮紐だが、ペットショップに行けば誰でも手に入れることのできる、ありふれた代物《しろもの》だった。  ロイがそれと同じ皮紐を購入したのは、一週間ほど前のことである。そしてサラ・ブレナンに夜通し酒を飲ませ、酔って眠りこけた彼女の首にその皮紐を巻きつけたのは、つい五分ほど前のことだった。  犬舎の中にサラの死体をおろすと、ロイはふーっと大きな溜息《ためいき》をついた。暗がりの中でサラのからだは、ただの大きな白い雑嚢《ざつのう》のように見えた。  前足の上に頭をのせて眠っていたドゥードルがゆっくりと頭を上げ、ロイを見た。 「あと一時間もたったら、おまえの出番だよ、ドゥードル」  ロイは小声で言った。  セントバーナード犬はだるそうに彼を一瞥《いちべつ》すると、起き上がる気配も見せずに再び頭を落とした。  ドゥードルの脇《わき》にサラを並べると、さすがのサラのからだも小さく見えるほどだった。ロイは半ば呆《あき》れて肩をすくめ、生温かい犬の尻《しり》をなでてやると、サラの首にドゥードルをつないでいる皮紐をしっかりと巻きつけた。  犬は身動きひとつしなかった。  ロイがサラ・ブレナンと知り合ったのは三年前のことである。ブレナン邸で開かれたニューイヤーズ・パーティーで、雇われた生バンドのボーカルをつとめたのがきっかけだった。  亭主に死なれたうえ、子供もいなかったサラは何かにつけて手当り次第に人を自宅に招待し、ばか騒ぎをするのが好きだった。しかし、招待客のほとんど全員がサラにたかることだけを目的にしており、誰ひとりとして厚化粧の丸々と太った淋《さび》しい未亡人を本気で相手にすることはなかった。  ロイとて例外ではなかった。安キャバレーで唄《うた》う仕事は実入りが少なかった。少なくて反吐《へど》が出るほどだった。それなのにパーティーの席上、サラのお気に入りの古いジャズナンバーを何曲か唄うだけで、まる一か月間、仕事を休んでも食っていけるだけの金が稼げたのだ。  だが、サラのほうはロイに特別の感情をもったようだった。彼女はパーティーのあと、毎日のようにロイに電話をし、夕食に誘った。 「私をベッドの中で愛してくれたら」と、ある晩、サラはぎっとりと塗りたくった赤い口紅を光らせて言った。 「あなたを特別に援助してあげてもいいわ」  五十八歳の脂肪だらけの女を抱くことを想像するだけで、ロイは全身に粟《あわ》をたてた。  だが、煙草の煙の渦巻く空気の悪い地下酒場で、ビール腹の男たちやそのはちきれそうなチョッキに顔をうずめる薄汚い女狐《めぎつね》どもを相手に唄い続けていく夢のない毎日を考えると、ロイはどんなことでもできそうな気がした。  同じ茶番なら、きれいごとを追わずに金の入る道を選ぼう——、彼は打算とほんの少しのサラに対する同情から、彼女の申し出を受け入れることにした。  ベッドの中でのサラはただの肉の塊であり、それ以上でもそれ以下でもなかった。そしてロイはいつのまにかブレナンの屋敷に住みつくようになった。サラは彼を養子として迎えることを公表した。 「私がフォアグラみたいになって死んでいったら、ブレナンの財産はあんたとドゥードルのものよ」  公証人の前でサラは、自分が生きている間にロイが他の女を作って結婚することは許さない、ということを言外にこめつつ、そう約束した。  だから、スザンヌが現われた時、ロイは迷った。二十四歳のスザンヌの魅力は、いくらサラに何万ドルという金を積まれたって手離したくなかった。といって恋のために自分の有利な立場を放棄するのもばかげたロマンチシズムである。  二つに一つしか選べないのなら、二つとも同時に手に入れる方法を考える、というのがロイのやり方だった。そして彼はその通りにした。     *  朝七時。裏庭でマーサが落葉を集めている音がする。ロイは青いシルク地のガウンをひっかけると、ポケットにマロングラッセをしのばせて庭へ出た。  黒人のマーサは大きな白いエプロンをつけ、それ以上に白い歯を見せて彼に笑いかけた。 「おはようございます、ロイ様。今朝はお早いんでございますね」 「ゆうベサラと飲んだんだが、少し飲みすぎてね。いつ、どうやってベッドに入ったのかも覚えてないんだよ。サラはまだ寝てるみたいだね」 「はい。奥様の姿はまだお見かけしておりませんです。ほんとにゆうべはひどい霧でございましたんですねえ。落葉がこんなに湿って……」  マーサはしゃがみ込んで、箒《ほうき》でうまく集められないほど湿った葉を芝生《しばふ》の間からつまみ出した。  ロイは大きく伸びをした。決行の時がきたのだ。  まず口笛を吹いてドゥードルを起こす。そして奴《やつ》の目の前にマロングラッセをちらつかせたまま、ふざけて逃げ回る。  マロングラッセ欲しさに犬は大きく飛び上がってロイに飛びつこうとするが、皮紐が届かない。マーサにそのおふざけの様子をたっぷり見せてから、犬舎に行く。ドゥードルの皮紐で首を絞められたサラの死体。マーサの悲鳴。  警察は「事故死」扱いするに違いない。泥酔したまま、明けがた庭に散歩に出たサラが、犬舎の中に入りこんでそのまま眠ってしまった。その首にドゥードルの皮紐が何かの加減で巻きつく。しかし犬はそんなことに気づかない。ひたすらロイのマロングラッセを求めて飛びつく。引っぱる。ぐいぐいと。  解剖をすれば、サラが相当量のアルコールを飲んでいたことも証明できるだろう。それに死亡推定時刻も、ドゥードルがロイにじゃれついた時刻とほぼ一致するはずだった。  ロイはマーサをちらりと見てから口笛を吹いた。さすがに胸がどきどきする。 「ドゥードル!」  彼は犬の名を呼んだ。  だが犬舎は静まりかえっていた。犬の引きずる皮紐の音もしない。 「ドゥードル!」  ロイは焦ってもう一度、呼んだ。 「おや、ドゥードルはどうしたんでしょう」  マーサが腰を伸ばして不審げに犬舎の方を見た。ロイはこめかみが脈打つのを感じた。 「眠りこけてるんだろう。あいつも年だからな」  だがマーサはロイの言うことを聞いていなかった。彼女はロイが制するよりも早く、犬舎の方へ駆け出した。ロイはあわててあとを追った。  まもなくマーサの鋭い悲鳴が裏庭にとどろいた。ロイは犬舎の入口で棒立ちになった。  マーサはサラの白い顔を凝視してわなわな震えていたが、ロイの見つめたものはサラではなかった。  ドゥードルが紫色の舌を垂らして死んでいたのだ。 「ばかな!」彼は犬舎に入り、犬の腹部に手を触れた。冷たいがまだ少しやわらかい。これではサラが死んだのとほぼ同じ時刻に犬もまた死んでいたということがわかってしまう。 「奥さまが、奥さまが」  マーサが気が狂ったように外に飛び出して行った。ひとり残されたロイは、世界の終わりを悟った。 「おまえは最後の最後まで役に立たない犬だったよ」  彼は、ドゥードルの鼻先にマロングラッセを押しつけながらつぶやいた。 「よりによってこんな時に老衰でくたばるなんて」  犬の太い前足の上に砂糖粒がぱらぱらとこぼれ落ちた。  あとがき  最近、若い読者を中心にショートショートの読み方が随分変わってきたように思う。「こわいオチ」「不思議なオチ」という、従来のショートショートに要求されていた基本的原則が崩され、短編小説の味わいがあるものに人気が移っているようだ。  だが私は、どうしても正統派ショートショートのもつ魅力から逃れられない。四百字詰め原稿用紙十枚の中に物語を凝縮させ、しかもオチをつける。うまく成功すれば、さながらパチンコ屋でチューリップが全開した時のような快感を味わうことができるはずなのだ。  しかし、言うは易し……でこれは大変な難事業だった。オチを優先させすぎると、物語が不自然になる。気分よく書きとばしていると、枚数が超過する。それに肝心かなめのアイデアが浮かばない時は、お先まっくら。そのくせ、諦《あきら》めてキッチンへ行き皿洗いなどしていると、ふっと浮かんできたりするのだから、ショートショートに弄《もてあそ》ばれているような感じがしたものだ。  舞台をアメリカに統一したのは、ある種の生活の匂いや泥臭さをできるだけ排除したかったからである。私の好きなテーマは、たいていが日常的で俗っぽく、井戸端会議で語られるような話である。そんな話を生臭くなく書くためには、舞台設定は大きなポイントになった。  正直に告白すると、私はまだ一度もアメリカに行ったことがない。だが行ったことがなくても、こと男と女の紡ぎ出す人間模様だけは想像がつく。俗的なことは、きっと万国共通なのだ。フランスを舞台にしても、多分、同じ作品になっていただろう。  ともあれ、一作書き終えるごとに、油を絞りとられたガマガエルみたいに憔悴《しようすい》し、「もう二度と書くか」と、決心するのだけれど、それでもまたコワイもの書きたさで書いてしまう。ずっとその連続だった。これも私が根っからコワイ話が好きだからだろう。  しかし、こんなふうに私の苦労話を書いたって仕方がない。コワイ話、不思議な話が好きな人に面白く気軽に読んでもらえれば、これ以上|嬉《うれ》しいことはない、と今は思っている。 一九八五年五月 小池真理子 角川文庫『第三水曜日の情事』昭和60年7月10日初版発行               平成9年4月1日8版発行